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古代祐三×マインドウェア市川幹人対談 第1回 「古代祐三氏、高校~電波新聞社時代を語る 」
2018年7月9日 00:00
7月27日に、BEEP2+Soundsレーベルから発売が予定されている「古代祐三 Early Collection BOX」。ここにはゲーム音楽作曲家である古代祐三氏の楽曲にまつわるロングインタビューが収録されている。これ自体がかなりの掲載分量ではあるものの、多岐に渡った内容は収め切れない部分も多かった。
本企画では、その未収録部分から若き日の古代氏が影響を受けたゲームに関するエピソードをお届けする。インタビューは古代氏と氏の高校時代の後輩であるマインドウェア社長・市川幹人氏が参加しているため、両氏の対談形式だ。第1回は、古代氏の高校自体から電波新聞社で活躍していた時代にフォーカスを当てる。
高校時代はフェンシング部に所属していた古代氏
電波新聞社の開発ルームで出会った二人
――:二人は、日本大学櫻丘高等学校時代の先輩と後輩の間柄とお聞きしましたが。
[古代氏]:一応そうなんですが、彼が大後輩を勝手に名乗っているんです。
[市川氏]:そうそう、古代さんは先輩ではなく、大先輩。
[古代氏]:実際は、私が卒業した直後に入学してきたので、入れ違いですね。
――:その高校時代に、自宅でプログラムを組んでいたんですか?
[古代氏]:組んでました。そのほかに、学校ではフェンシング部に入っていたのですが、その(部活の)時間が一番目が覚めていました。午前中は寝ているかゲームセンターに通っていたと思います。高校3年生の時ですが。
――:パソコンでもゲームを遊んでいたのですか?
[古代氏]:ものすごく遊んでいました。とはいえ、今と比べたら当時は(入手できるゲームタイトルが)少なかったですよね。おかげで、1本ずつじっくりプレイする余裕がありました。作曲活動もしていましたが、多くても年に3本ぐらいでしたので、かなり余裕でした。ゲームする以外にも、いろいろ遊んでいましたし。
[市川氏]:あちこち行きまくりましたよね。
[古代氏]:クラブに通ったり……当時の自分に戻りたいですね。
[市川氏]:僕は、クラブよりも野球! という人でした。平日はナイター、土日が野球というパターン。雑誌「ログイン」編集部へ、ソフトを載せてくださいと訪ねたときに“休日は野球しています”と言ったところ、めずらしいですねと返ってきまして。そういう業界なんだなと知って、驚きました。
[古代氏]:高校では野球をやっていた?
[市川氏]:高校はサッカーです。部員全然いなかったので。
[古代氏]:サッカーなんだ!?
――:古代さんがフェンシング部に在籍していたのは、何かきっかけがあったんでしょうか。
[古代氏]:とくに何もなかったです。運動はしたいけれど、皆がやってるようなものはおもしろくない。そんな感じで考えていたら、たまたまフェンシング部の女子先輩3人が勧誘に来たので見学に行き、その流れで入部したと思います。
――:高校時代はすれ違ったお二人ですけれど、実際はどこで知り合ったんでしょうか。
[市川氏]:電波新聞社の開発ルームですね。僕がそこでX1用タイトル「THE CURSE OF MARS」を制作していたときに、「マイコンBASICマガジン」(ベーマガ)のライターをしていた古代さんと出会いました。このとき、「THE CURSE OF MARS」の音楽が決まっていないという会話をしたところ、僕が高校時代の後輩だったということで音楽を担当してあげるよ、という形で決まりました。
[古代氏]:軽い(笑)。いわゆる私の“電波新聞社時代”のエピソードですね。
――:当時の電波新聞社でのエピソードで、覚えているものがあれば教えてください。
[市川氏]:電波新聞社の当時の副社長さんは社長の息子さんだったんですが、その方がちょうど開発ルームに遊びに来て、昼休みにBASICで組んだゲームをプレイしていたんです。それを見て“それでは全然ダメ”などと話したのですが、副社長が戻った後にマイコンソフトの藤岡忠さんがすごい顔をして、あの方は副社長さんだよ! と言われ……。
――:社長の息子さんが組んだプログラムにダメ出ししてしまった。
[古代氏]:なんとなく覚えてます。副社長さん……スーツを着て、いつも来ていた方がいましたね。そんなに大きくない人かな。
[市川氏]:そうです。もちろん、知っていればダメ出しなんて簡単にはしなかったと思いますが、その後はとてもかわいがってもらいました。
ほかのエピソードとしては、その藤岡さんが作っていたX68000用の「ゼビウス」に関してですけれど、これはMZ-2500用の「ゼビウス」の移植版なんですが、その移植作業中に気付いたことがあったんです。MZ-2500が搭載しているCPUはZ80系で、X68000は68000ですけれど、CPUの処理が逆なんです。藤岡さんは、MZ-2500のソースをにらみつつルーチンワーク的に移植作業をしていたら、途中から順序を逆にするのを忘れて入力していたという。僕は慌ててそのことを伝えたんですが、こまめにセーブしていた弊害でかなりの部分が上書きされていたため、どこから逆だったのかを二人で探すことに。
[古代氏]:MZ-2500版はスプライトを使っていた?
[市川氏]:256色1ドットか、16色で1バイト2ドットだから、スプライトになるルーチンを組んでいたと思います。
[古代氏]:疑似スプライトを組んでいたのかな?
[市川氏]:1ドット1バイトや2ドット1バイトなら簡単ですよね。PC-88シリーズやX1シリーズは3プレーンの1バイトで8ドットだからめんどうですけれど。だから、動きがすごくきれいだったんです。スクロールは、256色のPCGを使っていましたし。
[古代氏]:なるほど、それならきれいに動かせますね。なぜPC-88シリーズは8ドットにしたのかな……。
[市川氏]:本当ですよね。PC-6001mkIIのほうがよいと思うんですよ。2ドット1バイトじゃないですか。
[古代氏]:確かに(笑)。
――:電波新聞社時代には、マイコンソフトのオリジナル作品「GATE OF LABYRINTH 迷宮への扉」を、時を同じくして日本ファルコムでは「ザナドゥ シナリオII」を手掛けていますが、これは並行して作業していたんでしょうか。
[古代氏]:まったく記憶にないんですよね……とくに「GATE OF LABYRINTH 迷宮への扉」のことはほぼ忘れています。とはいえ、プログラムは私が所持していた開発ディスクの中にあったので、かかわっているのは間違いないとは思います。
――:開発は、米子マイコンクラブ(YMCAT)です?
[市川氏]:そうですね、そこでの最後期作品です。“FORM”というBASICコンパイラのような言語で作成していたのですが、それにミュージックドライバだけを強引にかぶせる作業を藤岡さんが担当していました。
――:古代さんは、どれくらいのペースで電波新聞社を訪れていたんでしょうか。
[古代氏]:高校時代は、それこそ週に1回とか、そのくらいの頻度だったと思います。高校を卒業してからはどうだったかな……。
[市川氏]:来るときと来ないときの差が、かなりありましたよね。
[古代氏]:行く時は、2日や3日一度に、という場合もありました。そんな話をしていたら思い付いたんですが、ベーマガのイベント「ALL ABOUT マイコンBASICマガジン」に藤岡さんとセットで市川さんを呼ぶと、そうとうおもしろい話が出て盛り上がると思いますね(笑)。
――:そう言えば、先ほど高校時代はフェンシング部に在籍していたという話をしていましたが、フェンシングのゲームと言えば「グレートソードマン」くらいしか思い当たらないほどマイナーですよね。親近感が湧いたりはしませんでした?
[古代氏]:むしろ、そんなゲームがあるんだ! とは思いました。
――:BEEP店頭に設置したことがあるんですが、プレイヤーは一日に一人か二人でした。
[古代氏]:そんな(笑)。
[市川氏]:覚えゲーですけれど、それに気付く人が少な過ぎたということですよね。当時「ストリートファイターII」が出回るまで、知らないプレイヤー同士のコミュニケーションはほぼなかったですよね。そう考えると「グレートソードマン」は、リリース時期によって評価が変わったゲームかもしれないですね。
[古代氏]:「グレートソードマン」は、タイトーですよね? タイトーのゲームは、好きなのがたくさんあるんですよね。
ゲームセンターに通いまくり、待ち合わせに遅れることも
往年のタイトー作品の思い出
――:古代さんの地元には、タイトーの直営店はありました?
[古代氏]:豊田駅の上にあるタクシー乗り場の前、マクドナルドの後ろに、今はパチンコ屋があるんですけど、そこがタイトー直営のゲームセンター“ラッキー”でした。「グレートソードマン」も、そこにありましたね。ほかには「ゲットスター」や「ワイバーンF-0」、「ハレーズコメット」、「ワイルドウエスタン」も同じお店でプレイしました。
[市川氏]:「ジャングルキング」や「エレベーターアクション」などの、3色スプライトを使用している時代のタイトルはよかったですね。その後の、色数が増えた辺りから粗製乱造が目立った気がします。三辻さんがタイトーを辞めた後ですね。マイコンソフトから発売されたオリジナルタイトル「イシュラル」の原曲を作った原田さんという方が、M.N.Mソフトウェアで作った「ファンタジーサーガシステム」というゲームの曲を作曲してくださったのですが、グラフィックスやキャラクターを三辻さんが担当してくれたんです。そのときにタイトーがどんな会社かを聞いたのですが、返ってきた答えが「すべてが安い」でした(笑)。
――:古代さんは、ゲームセンターにはマメに通っていたんですか?
[古代氏]:いや、もうそれは……。
[市川氏]:“通っていた”どころではなく、それが原因で2時間以上待たされたこともありました。
[古代氏]:実は、親の金でゲームセンターに……(笑)。
[市川氏]:古代さん宅に電話すると、もう出たと言われたんです。なので藤岡さんと“まだ来ませんね、もしかしてゲームセンターにいるんですかね?”などと会話をしながら待たされました。
[古代氏]:電波新聞社ビルのすぐ横に細いとおりがあるんですが、そこに食べ物屋さんがあるんです。そこでみんなで集まって食べ、その少し先にあるゲームセンターで遊んでました。ここには、ベーマガライター陣が大勢たむろしていましたね。
[市川氏]:夏場、クーラーが効いている店内で「ギャプラス」を遊ぶのが気分的によい感じでした。映像が涼しげなので。
――:二人とも、大のアーケードゲーム好きなんですね。
[市川氏]:ええ、一緒に「スーパー魂斗羅」を遊んだりしました。古代さんには、“タイムマシン”という基板屋さんも紹介しましたね。お店は、2001年くらいに廃業してしまったようですが。
――:タイムマシンでは、基板を買われたりしたんですか?
[市川氏]:僕はあまり買っていないですね。当時の社長だった山崎さんに、ROMの中身を見たいので「タイムパイロット」の基板を借りて良いですか? という感じで、古いタイトルを片っ端からディスアセンブルして覗く、なんてことをしていました。古代さんは「ストリートファイターII」を買いましたよね?
[古代氏]:そうですね。タイムマシンからずっと「ストリートファイターII」(シリーズを)を購入していました。
――:それは、今でも所有しています?
[古代氏]:全部売ってしまいました。ただ、当時「ストリートファイターII」シリーズは全部所持していました。最後は、「ストリートファイターIII 2nd IMPACT -GIANT ATTACK-」で、唯一「ストリートファイターIII 3rd STRIKE -Fight for the Future」だけ遊びませんでした。
「ストリートファイターII」シリーズの対戦では、地元界隈のゲームセンターでは敵なしに
古代さんはザンギとバイソンが好きだった!
――:ベーマガライター陣も、「ストリートファイターII」シリーズをプレイしていましたよね。
[市川氏]:その中でも1、2位を争うくらい上手にプレイしていましたよ。
[古代氏]:最初にボコボコにされたのが悔しくて、武者修行し腕を磨きました。
――:ちなみに、フェイバリットキャラはいますか?
[古代氏]:全キャラ使うので、とくにはないですね。
[市川氏]:「バーチャファイター2」が登場した辺りから、特定のキャラのみでプレイするという人が増えた感じがしますね。昔から上手だった人は、わりと全キャラクターで遊ぶ。
[古代氏]:今でも、上手な人は全キャラ使えますよね。
――:「ストリートファイター・トリビュートアルバム」では、バイソンステージのアレンジを作曲されていましたが、何か理由はあったんでしょうか。
[古代氏]:あまり覚えていないんですが、バイソンステージを担当してほしいと言われたのだと思います。リュウのステージは(セガ・インタラクティブの)光吉さんが歌っていますよね? そういうことを考えると、あらかじめ先方さんが決めていたと思います。もしかすると、いくつか候補があったかもしれませんが、私はバイソン好きだったからかもしれません。
[市川氏]:ザンギエフとバイソンが大好きですよね。
[古代氏]:ファイナルターンパンチ、あれが熱いですよね!
[市川氏]:ライフが少ないと、ガードしていても削られて終わるという。
[古代氏]:弱パンチ連打から、前にためてのターンパンチと、通常のダッシュアッパー、ダッシュストレートを使い攻撃を封じる。半ば、ハメ殺しのような感じですよね。こうして相手を固めておき、スキを見付けてターンパンチを叩き込む。これが気持ちいいです。
――:“スリー”の声が聞こえると、もうダメだと思います。
[古代氏]:大キックが空振りしたときに“スリー”の声が聞こえると“あっ……”と(笑)。
――:そう言えば、同じベーマガライターの山下章さんや手塚一郎さんも「ストリートファイターII」シリーズにハマっていましたよね。
[古代氏]:はい。最初は山下さんにボコボコにされました……確かリベンジは完了しているはずですが、その後は電波の人たちには負けなかった。プロゲーマーレベルの人たちが集まるゲームセンターへ遠征して戦うんですが、そうすると地元の豊田ではヌルいんですよね。立川でもそう。「ストリートファイターZERO2」の時は30連勝したり。
――:そのときのフェイバリットキャラは?
[古代氏]:ロレントでした。
――:渋い! 使い難いキャラではなかったです?
[市川氏]:従来のシリーズキャラクターとは使い勝手が違うので慣れないですが、使いこなせるとヤバいです。
[古代氏]:立ち中パンチが異様に強かったですね。立川では、相手はカモしかいなくなってしまい、八王子にも行きました。八王子は、立川より上手な人が多かったですね。ゲームセンター天国だったから、かもしれませんが。
――:そう考えると、「ストリートファイターII」シリーズでは全国クラスまでプレイしていたんですね。
[古代氏]:そのレベルまでやり込んだと思います。あの頃はゲームセンターへ行くと、プレイヤー同士が顔をあわせて“こんにちは”とあいさつしたり、あれはよかったですね。
――:名前も知らないけどあいさつするという、独特の空気感がありましたね。でも、その相手が古代さんだと分かれば、相手は驚きますよね。
[古代氏]:そこは、面が割れてるわけではないので大丈夫です。
――:とはいえ、古代さんは雑誌やCDなどで顔写真も露出していますよね。
[古代氏]:そうですね。それでも、知っているのは一部の界隈だけですね。そう言えば高校に通っていた頃ですが、京王井の頭線の吉祥寺駅ホームを昇ったところの左側、現在はユザワヤとなっている場所が全部ゲームセンターでした。ここがすごくお気に入りの場所で、学校帰りは必ず立ち寄っていたんです。
[市川氏]:そうそう、巨大でした。
[古代氏]:ものすごく大きくて、入ると目の前に「スーパーデッドヒート」がありました。あそこは2フロアだった記憶があるんですけれど、上はテーブル筐体、下が大型筐体だったと思います。
――:とくにやり込んだゲームは何だったんでしょう?
[古代氏]:そこでは「スーパーデッドヒート」でした。ほかには、アタリの「タンク」ですかね。
[市川氏]:「タンク」を、ずいぶん長いこと置いてあったのがすごいですよね。
[古代氏]:とにかく広かったので、何でも入荷しました。
――:「タンク」は、あのベクタースキャンの?
[古代氏]:そうです。あれが大好きなんです!
――:被弾すると、画面にヒビが入るゲームですね。渋いです。よく残っていましたよね。
[古代氏]:そう言えば、「スターウォーズ」や「ジャウスト」もありました。「スターウォーズ」は、地元のゲームセンター“ラッキー”にもありましたね。
[Vol.2へ続く]