ボクたちが愛した、想い出のレトロゲームたち

80年代のアダルトソフト事情&ソフトハウス主催のプログラムコンテスト ~永久保存版 レジェンドパソコンゲーム80年代記~

永久保存版 レジェンドパソコンゲーム80年代記

 連載「ボクたちが愛した、想い出のレトロパソコン・ゲームたち」の番外編として、この記事では総合科学出版から発売されている「永久保存版 レジェンドパソコンゲーム80年代記」(著:佐々木 潤・レトロPCゲーム愛好会、出版社:総合科学出版)の一部記事を抜粋し、紹介しよう。

 今回取り上げるページは、“80年代のアダルトソフト事情&ソフトハウス主催のプログラムコンテスト”だ。なお、書籍版では画像はモノクロだが、諸事情により本記事では一部カラーや別の写真を掲載している。また、今回に限り諸事情により、書籍版と掲載版で文字表現が異なることをご了承頂きたい。


80年代のアダルトソフト事情


80年代「ロリコン」ブームと結び付いたことでパソコンゲーム業界にも“アダルト”ブームが到来する!

『ナイトライフ』は、厳密にはゲームというよりは性生活管理ソフトにあたる。夫婦の体調や、どこでエッチしたいかという質問に答えていくと、おすすめの体位を表示してくれる。安全日の計算機能付き。写真は、『ナイトライフ』『オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか』『団地妻の誘惑』が掲載されていた頃の光栄マイコンシステムの広告だ。

 日本の商業アダルトゲームの黎明期は「マイコン」、今でいうパソコンが一般普及する時期に重なる。つまり1980年を挟んだ前後2~3年間の話である。

 1979年の夏、アマチュア無線ショップから始まり当時パソコン販売会社だったハドソンが、MZ-80Kの発売元シャープの系列会社に誘われ、ゲームの通信販売を開始。電波新聞社『月刊マイコン』誌に広告が掲載され、ハドソンは人気ゲームメーカーとして1980年を迎えた。その商品ラインナップに『野球拳』というソフトがある。

 テキストキャラクターのカクカクした描線で強引に表現された女の子とジャンケン勝負して服をひんむく内容で、クオリティはともあれ国内商業エロゲーのご先祖様として記念できる。

 1981年にはシャープ、富士通、NECなど8ビットコンピュータの大御所がマイコン市場を席巻。マニアの遊び道具の段階ではあったが、個人利用のコンピュータと電子ゲームが身近なものになりつつあった。

 これに合わせ多くのメーカーがゲーム製作を手がけだす。その際、アダルト方面でまっさきに名が挙がるのが、1982年の『ナイトライフ』と『ロリータ[野球拳]』だ。

 『ナイトライフ』を作ったのは光栄マイコンシステム。かの『信長の野望』の光栄である。内容は夫婦の夜の生活をサポートする管理ソフトで、8つの質問に答えるとお勧めの体位が画面に表示される。エロゲー史上では、セックス行為を直接あらわすソフトの先陣をきった、という程の立ち位置になる。光栄は続けて『団地妻の誘惑』(1983)や『オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか?』(1984)というダンジョン巡回式のエロゲーを作る。これらは『ナイトライフ』と併せて、“ストロベリーポルノシリーズ”3部作として名を馳せた。

 もう1つ、PSK(パソコンショップ高知)の『ロリータ[野球拳]』は、脱衣ゲームが当時のマニア筋の大きな背景である「ロリコン」ブームと結び付いた顕著な例だった。1981年末『コミックレモンピープル』(あまとりあ社)が書店に売り出されたのをきっかけに、劇画調のドぎつい女体表現から可愛いアニメ調の絵柄による少女キャラ造形へパラダイムシフトが発生。「ロリコン」は、同時期に中森明夫がコラム「おたくの研究」で提唱した「おたく」概念とともに、以降のマニアが背負う業となった。この影響がアダルトゲームにも波及したのだ。

 『ロリータ[野球拳]』は吾妻ひでおの漫画そっくりな絵柄のセーラー服少女とジャンケン脱衣勝負を行うもので、本作のあと、PSKはマップ移動して少女キャラを手ごめにする「ロリータ」シリーズを次々出して“ロリコンソフト”を大きく開拓。1983年には、さらにエニックスが『マリちゃん危機一髪』を、ツクモが『美少女ひっぱがしゲーム』を発売してロリコン+脱衣の分野を後押し。ハドソン、光栄、エニックス、ツクモ、日本ファルコム(『女子大生プライベート』)など、のちに一般分野で大成する会社がエロも非エロも作るカオティックな状況が黎明期の特徴だった。だがこれは1983年7月のファミコン登場で揺らぎ、ソフトハウスが一般とアダルトで枝分かれる時期が到来する。

『ロリータ[野球拳]』は、その名の通り当時のマニア筋に広がったロリコンブームと、当時エロゲーでおなじみの形式だった脱衣野球拳が結びついたもの。絵柄を見れば、ロリコンブーム期の吾妻ひでおの影響力の大きさもうかがえる。写真は、初期PSKが出稿していた広告ページ。最初期の頃は、ガチガチのハード屋だったことが分かる。

メーカー主催のゲームプログラムコンテストがスタープログラマーやヒット作を誕生させた!

エニックスの記念すべき第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト募集広告。賞金総額300万円が光っている。(『Oh!MZ』1982年12月号)。

 1970年代後半から1980年代前半にかけては、マイコン雑誌やショップ、ソフトハウスなどが、ユーザーからゲームプログラムを募っているのをよく見かけた。募集サイドには自社開発の手間なくゲームを販売できるメリットがあったし、応募側も発表の場を求めていた時代だったといえよう。

 やがて、その流れはコンテスト形式へと発展。有名なのは、エニックスの「第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」(1982年) だ。応募総数316本のなかから最優秀賞に輝いたのは、森田和郎氏の『森田のバトルフィールド』。ほか、中村光一氏の『ドア・ドア』、堀井雄二氏の『ラブマッチテニス』も受賞し、大成功を収めた。同社はその後、ビジネスソフトやユーティリティへ対象を広げたコンテストも開催している。

 翌年にはPONYCAも「第1回オリジナル・プログラム・コンテスト」を開催。受賞者の何人かは、その後も同社のメディアミックス作品の開発に携わる活躍を見せた。さらに翌1984年には、「アスキーソフトウェアコンテスト」の発表も。審査員に糸井重里氏や細野晴臣氏が名を連ねた同コンテストからは、『ボコスカWARS』が誕生した。同じ年、「第1回ボーステック プログラムコンテスト」からは、あの『EGGY』という名作も世に出ている。コンテストから、数々のスターゲームデザイナーやヒット作が生まれ出た時代であった。

アスキーソフトウェアコンテストのグランプリ5作品を発表。審査員がとてつもなく豪華なのが分かる。(『ログイン』1984年2月号)。
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