ボクたちが愛した、想い出のレトロパソコン・マイコンたち
マイクロソフトとアスキーが生んだMSX~永久保存版 レジェンドパソコンゲーム80年代記~
2024年4月23日 08:05
連載「ボクたちが愛した、想い出のレトロパソコン・ゲームたち」の番外編として、この記事では総合科学出版から発売されている「永久保存版 レジェンドパソコンゲーム80年代記」(著:佐々木 潤・レトロPCゲーム愛好会)の一部記事を抜粋し、紹介しよう。
今回取り上げるページは、“マイクロソフトとアスキーが生んだMSX”だ。なお、書籍版では画像はモノクロだが、諸事情により本記事では一部カラーや別の写真を掲載している。
マイクロソフトとアスキーが生んだMSX
アスキーとマイクロソフトが共同提唱した世界統一規格は、どんな軌跡を描いたのか?
MSXとは、1983年6月にアスキーとマイクロソフトが共同提唱した世界統一規格のもと、同年10月に発売が始まった家庭用パソコンの総称だ。
家電メーカー各社なども巻き込んで様々なところから発売され、それぞれに多少の機能の違いはあったものの、統一規格のおかげでソフトウェアの動作においては完全な互換性が保たれていた。
MSXは当初、マイクロソフト極東担当副社長だった西和彦氏と、松下電器社長の前田一泰氏が雑談のなかで構想したMNX(前田・西)規格から始まったといわれている。家電メーカーにコネクションのあった西氏により、結果として14社もの参入を得る。しかし、当初から新規参入をもくろんでいたメーカーにとってMNX規格は障害になるため、セガはSC-3000を、バンダイがRX-78、ソードがm5Proなどを先手を打つかたちで発売したという。
MNXという名称はすでに商標登録されていたこともあり、最終的にマイクロソフトも絡んでMSXという名称になったといわれている。とはいえ、この件に関しては諸説があるため、残念ながらどれが本当かはわかっていない。
実際にスタートしたMSXプロジェクトは、プロトタイプをヤマハが製作していたが、市場に登場した第1弾ハードは三菱のML-8000という機種だ。
ところが、発売されてしばらくはNECのPC-8800シリーズ、富士通のFMシリーズ、シャープのX1シリーズといった御三家よりも描画能力が低かったことと、拡張機器が揃っていなかったために、なかなか売れなかった。しかし、これまでパソコンを扱っていなかった家電メーカーが発売したパソコンは、田舎の町の電器店にも置かれることとなり、そこではデモも流され、これまでパソコンを見ることも触ることもなかった一般層へのアピールに一役買うことになる。
なお、同時期に発売されたファミコンに出鼻をくじかれて普及しなかったともいわれているが、実際ファミコンは翌年84年のクリスマス商戦まで大ヒットとはいえない状態で推移していたとの意見もある。これが原因、と一概にはいえないが、出だしで若干の躓きがあったのは間違いないようだ。
83年10月には、初の専門誌となる『MSXマガジン』が登場。曲がりなりにもパソコンであるMSXは、出だしこそ少々引っかかったものの、少しずつ地位を固めていく。ソフトも、初期の頃は他機種からの質の低い移植作もあったりしたが、日を追うごとにROMカートリッジによる供給が主流となり、またカシオのPV-7のように文具流通を通して文房具屋でMSXの宣伝・販売が行われるというチャンスにも恵まれる。
当時のパソコンとしては目新しい宣伝方法であり、この頃には周辺機器も多種多様なものが揃い始め、戦いの準備は整っていた。とはいえ、規格が共通ということもあり各社とも特徴を押し出しづらかったようで、しばらくは広告にさまざまな有名タレントを起用することで知名度アップを図っていた。
代表的な広告タレントとしては、ソニーが松田聖子、日立は工藤夕貴、ビクターは小泉今日子、東芝は岡田有希子、東芝は横山やすし親子、富士通はタモリなどだった。ところが、これでも売り上げに差が付かなくなると、ついに価格競争が始まってしまう。皮肉なことに、その恩恵により他機種が10万円以上したところ、MSXは3万円で十分におつりのくる本体も登場し、子どもにとっての選択肢にもなった。
残念だったのは、本体に比べて周辺機器の値段が高かったため、それらは余り普及せず、これがMSXをゲームパソコンと決定づける要因にもなった。