ボクたちが愛した、想い出のレトロパソコン・マイコンたち

80年代初期のソフトハウスとパソコン雑誌 ~永久保存版 レジェンドパソコンゲーム80年代記~

永久保存版 レジェンドパソコンゲーム80年代記

 連載「ボクたちが愛した、想い出のレトロパソコン・ゲームたち」の番外編として、この記事では総合科学出版から発売されている「永久保存版 レジェンドパソコンゲーム80年代記」(著:佐々木 潤・レトロPCゲーム愛好会)の一部記事を抜粋し、紹介しよう。

 今回取り上げるページは、80年代初期のパソコンメディアに絡む事情のページだ。なお、書籍版では画像はモノクロだが、諸事情により本記事では一部カラーや別の写真を掲載している。


80年代初期のソフトハウスとパソコン雑誌


続・著名ソフトハウスも、以前は試行錯誤していた

 プログラムコンテストを開催し、優秀な作品を販売するという形を取っていたエニックスは、1982年に第1回目の募集をかけ、送られてきたプログラムを83年に発売している。コンテスト形式を取ったためジャンルはバラバラだったが、優秀なプログラマが次々と集まった。そのなかには、『森田のバトルフィールド』の森田和郎氏、『ドア・ドア』の中村光一氏、『マリちゃん危機一髪』の槙村ただし氏、そして『ラブマッチテニス』の堀井雄二氏の名前も。ここでデビューした彼らは、翌年以降もヒット作を生み続けている。そういった意味では、エニックスはプログラマやクリエータ発掘の才能があったソフトハウスだったといえるかもしれない。

PONYCA主催第1回オリジナル・プログラム・コンテストの発表広告。こうしたプログラム・コンテストは、様々なソフトハウスや出版社などで行われていた。

 この時代に、版権もののタイトルを積極的にリリースしていたのがPONYCAだ。映画『幻魔大戦』をもとにした『幻魔大戦』、映画『ミラクル・ワールド ブッシュマン』を題材にした『ハッピー・ブッシュマン』、長期にわたって続く漫画『ゴルゴ13』を題材にした「ゴルゴ13」シリーズなどを83年までに発売していた。版権処理をどのようにしていたのかは不明だが、同じフジサンケイグループのタイトルが中心なので、今と違いうまく事が運んだのかもしれない。ちなみに、『南極物語』の“コンピューターデザイン”としてクレジットされているのは、ログインの編集長も務めたことのある“高橋ピョン太”氏こと高橋義信氏だ。これらのタイトル以外にも、オリジナルプログラムコンテストを開き入賞作品も販売していた。

マジカルズゥのアドベンチャーゲーム人気3作品を一挙掲載した広告。どれも秀作だ。

 ひときわ渋さが目立っていたのが、マジカルズゥだ。この時期の代表作には『ピラミッドの謎』『黄金の墓』『ムー大陸の謎』があり、どれも高難易度にもかかわらず上々の評判だったようだ。黄金の墓はカタカナでの入力が可能だったこともあり、敷居はそれほど高くなかったといえるが、だからといって謎解きが簡単だったわけではない……

 この当時のユーザにとって、アーケードゲームを自宅で遊べることは夢だった。それをある意味で叶えたのが、“信頼の電波移植”といわれたマイコンソフトだろう。名だたるナムコのアーケードゲームをハイクオリティで移植し、全国のユーザを狂喜乱舞させたソフトハウスである。83年までにアーケードからの移植タイトルとしてリリースされたのは『ギャラクシアン』『ディグダグ』『パックマン』、そして『タイニーゼビウス』だ。見た目がアーケード版とまったく違うPC-8001版『ディグダグ』や、諸事情から冠に“タイニー”を付けての発売となった『タイニーゼビウス』が、ゲームの面白さという部分を失わずに移植されていたことには、時代を超えて今も感心する。

 このほかにも、市販ソフトのリストをすべて掲載した書籍を発売しつつ、オリジナルタイトルも出していたアンプルソフトウェアや、地震というテーマに取り組んだゲーム『巨大地震』などをリリースしていたユニオンプランニング、ブローダーバンドソフトのタイトルを移植販売していたシステムソフトというように、数多のソフトハウスが群雄割拠していた時代が80年代初期だったといえるだろう。思い返してみても、非常に面白い期間だったことは間違いない。

マイコンソフトは、当時人気のあったナムコのアーケードゲームを次々と移植していった。
自社ソフトのプログラムリストを、書籍にも掲載していたアンプルソフトウェア。当時、雑誌や書籍に膨大なマシン語リストを掲載し、入力が面倒であればテープ版を買うのは一般的だった。
ユニオンプランニングはアドベンチャーゲームで有名だが、この『巨大地震』はシミュレーションゲーム。地震に関する様々なデータが提示される本格派だ。

パソコンゲーム専門誌がなかった1980年代初頭、マニアの情報源は技術系マイコン雑誌だった

今春(2014年)、通巻450号が発行された老舗雑誌『I/O』。誌名は入出力(input/output)を意味するコンピュータ用語に由来する。『ASCII』は、コンピュータオセロ対局企画『マイクロオセロリーグ』を主催し、森田和郎氏を輩出するなど、当時はゲームにも力を入れていた。隔月刊誌としてスタートした『マイコン』のキャッチフレーズは、「パーソナル・コンピュータ時代の情報誌」で、誌名は“my computer”の意味。『RAM』は、1978年に廣済堂より発売されたパソコン誌。4大誌のなかでは、もっとも早い1984年に休刊となってしまった。

 1982年に『ログイン』(アスキー出版)や『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社)などが登場するまで、コンピュータゲームに特化した雑誌は存在しなかった。それまでのあいだ、ゲームの情報源としての役割を果たしたのが、『I/O』(日本マイクロコンピュータ連盟→工学社)や『マイコン』(電波新聞社)などのマイコン雑誌。ハードやツール、技術系の記事に混じって、ゲームの記事や広告も掲載されていたのだ。こうしたゲーム誌登場以前のマイコン雑誌について振り返ってみよう。

 唯一、現在まで続いているのは1976年創刊の『I/O』。1980年代初頭には、編集ページの多くが読者投稿によるプログラムリストに割かれ、『ギャラクシアン』などゲームセンターで人気のタイトルを模した作品を中心に注目を集めた。投稿者のなかには、あの中村光一氏や芸夢狂人氏の名前も。掲載プログラムは、COMPACからカセットテープで頒布されていた。また、当時はゲームの広告の掲載数も多く、これを目当てに購読していた人も少なくないだろう。なお、1983年にはゲームプログラムを専門に扱う姉妹誌『PiO』(工学社)も誕生している。

 西和彦氏が、1977年に創刊したのが『ASCII』(アスキー出版→アスキー)。ホビー色が比較的強かった『I/O』に対し、技術色を強く打ち出してはいたが、ゲームプログラムも掲載されていた。毎年4月にエイプリルフール企画として発売された同誌のパロディ版『AhSKI!』からは、国産テキストアドベンチャーの先駆けとなる『表参道アドベンチャー』も誕生。2014年現在も『週刊アスキー』(KADOKAWA)というパソコン情報誌が存在するが、こちらは1989年に創刊された『EYE-COM』(アスキー)を源流としている。

 同じく1977年に創刊された『マイコン』は、『I/O』同様、電話帳並みの分厚い雑誌として知られ、やはりゲームのプログラムリストやゲームの広告が多数掲載されていた。ユニークなところでは短編小説が連載されていたが、やがて作者の呉英二氏が自らゲーム化(『ゼノン』)し、同誌主催のプログラムコンテストに入賞。市販された、というエピソードがある。ちなみに、呉氏はのちに呉ソフトウェア工房を設立し、いまも現役だ。

 このほか有名なのが、『I/O』『ASCII』『マイコン』とともに“4大誌”といわれた1978年創刊の『RAM』(廣済堂)。“マイコンに強くなる知識と情報”をキャッチコピーとしていた。1982年になると『Oh!PC』『Oh!MZ』『Oh!FM』(いずれも日本ソフトバンク)といったハード別の専門誌も創刊されている。

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