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NEC PC-8001の開発者や「走れ!スカイライン」の作者が登壇、当時の苦労話などを披露

「PasocomMini PC-8001」の体験会レポート ~ Vol.3 ~

開場前の11時からは、プレス向けに簡単なプレゼンテーションが行われた。左が三津原所長で、右が「PasocomMini」ディレクターの郡司氏

 株式会社ハル研究所は2019年9月28日、秋葉原のラジオデパートにて「PasocomMini PC-8001体験会」を開催した。

 当日午前0時に、体験会にて「PasocomMini PC-8001」を販売することがアナウンスされたほか、80年代前半にPC-8001用名作ソフトを産み出した数々のスタープログラマの方々による、トークイベントも行われた。そのすべてを、余すところなくお伝えしよう。


 続いて、14時半からもゲリラトークを行おうとしていたのだが、登壇者が質問攻めにあっていたために時間の都合が合わず、15時からの早川氏のトークショーを迎えた。早川氏は、PC-8001版『走れ!スカイライン』の作者で、同作は後に各機種へと移植された。


『走れ!スカイライン』の作者である、早川氏

[三津原氏]:『走れ!スカイライン』の作者である、早川栄太さんです。早川さんもメディアに出るのは初めてですよね。『I/O』を見ていると、手だけ出ていたりしましたよね。

[早川氏]:元々電子工作が好きだったものですから、『I/O』や『トランジスター技術』に電子工作の記事をちょこちょこ投稿していまして。さすがに顔を出すのは恥ずかしいものですから、手を。

[三津原氏]:早川さんのゲームは『3BY4』などいくつかありますが、その中でも『走れ!スカイライン』は動いているのを見た時に衝撃的で、どうしても「PasocomMini PC-8001」に収録したかったんです。が、商標的に色々面倒くさいところがありましてですね。最初から、スカイラインとして作ったんですか?

[早川氏]:これはですね、『I/O』本誌に『3D風カーレース』という名前で投稿したんですよ。スカイラインとか関係なく。それがなぜか『PiO』に載りまして、そのときに“グラフィックを変えてスカイラインにしてくれ”と言う話になりました。それで名前が『走れ!スカイライン』になったんです。

[三津原氏]:投稿した後に変わった?

[早川氏]:ええ、“変えてください”と言われて変えたんです。

[三津原氏]:それで、ゲーム中にスカイラインという名前が出てこないんですね。

[早川氏]:出てこないですね。これはコンパックさんから発売する時に、日産とタイアップしたらしいんですよ。私はそのとき日産のサニーに乗ってまして、私も別に日産嫌いじゃなかったので、どうぞということで『走れ!スカイライン』にしました。

[三津原氏]:車を一台プレゼントされたと言うことはなかったんですか?(笑)。

[早川氏]:それだったら嬉しいんですけれど(笑)、製品のカセットテープはもらいましたよ。

PC-8001とは思えない、滑らかな動きを見せてくれる『走れ!スカイライン』

[三津原氏]:そんな早川さんですが、いつ頃からコンピュータを使ってました?

[早川氏]:友人でPET2001を持っている人がいまして、当時ですからBASICでスタートレックをやらせてもらい、これは結構面白いなと。ただPET2001ですから、当然グラフィックはキャラクターだけですしカラーも出なかった。もう少し良い物が欲しいけどApple IIは高いし……と思っていたところにPC-8001が出まして、画面は荒いけれどもカラーが出るし、これならゲームにも使えるかなということで、予約して定価で買っちゃいました。

[三津原氏]:ゲームをやりたくて買ったんですね。

[早川氏]:そうですね。ゲームをやりたかったですね。

[三津原氏]:ゲームをされる方でもあるんですね。

[早川氏]:その頃、夜中にゲーセンにはけっこう通ってましたよ。

[三津原氏]:腕前は?

[早川氏]:腕は上手くないですよ。当時ゲームセンターに行くと、その日の最高得点というのが壁に貼り出されるんですけど、新しく入ったゲームは私が何とか壁に貼り出されるくらいになるんですけど、そのゲームが一週間二週間たつと上手い方が出てくるので、私の名前は壁から消えちゃう。

[三津原氏]:何種類かゲームを作った後に、しばらくハードの方を作っていましたよね?

[早川氏]:そうです。『I/O』にも投稿しましたが、PC-8001のあとPC-8801やPC-9801などが出ましたが、その頃はみな画面を綺麗にしようと思ってVRAMは増やしたけど、CPUの性能が追いつかない時がありましたよね。それで、68000のほうが良いんじゃないかと思い、そちらに鞍替えしまして。ちょうどその頃、シミュレーションみたいな計算をやることが多くて、そのときに大量のメモリがリニアにアクセス出来ないとやりにくいんですよ。それで68000系に行きました。

[三津原氏]:話を聞いていると、完全な技術系の方ですね。

[早川氏]:どちらかというと、ハード屋ですね。今日もここに来る前に秋葉原を少し歩いたのですが、駅を出ると「あれ? ちょっと違う世界に来ちゃったかな?」と思うけれど、秋月電子や千石電商、ラジオデパートに行くと「あれ全然変わってないな」と(会場爆笑)。懐かしい感じがしました。

[三津原氏]:普段は何をされて?

[早川氏]:愛知県で兼業農家をしています。ただ研究開発といいますか、ソフトウェアとハードウェアの両方を設計して測定機器は作っています。回路は自宅で作っています。

[三津原氏]:先ほどから、ゲストの方でゲームを作り続けている人があまりいない、というのが不思議に思います。

[早川氏]:ゲームではないですが、ソフトとハードは作っています。ゲームは初期の頃、みなさんアクションゲームを作られていたと思うんですが、アクションゲームというのは自分で作って自分で遊べるというメリットがあるんですよね。アドベンチャーなどのシナリオがあるのは自分では遊べませんからね。

[三津原氏]:ゲームのようなものは、まだ作っています?

[早川氏]:ゲームというよりはシミュレータとかCAD、そちらは作りますけど、ゲームは作らないですね。

[三津原氏]:でも、プログラムはまだ……。

[早川氏]:現役でプログラムは書いています。

[三津原氏]:凄いですね。わりと最新の言語とかを使うんですか?

[早川氏]:昔ながらですよ? CやC+は使いますけど、Javaとかは使わないです。

[三津原氏]:全然今風で、現役のプログラマですね。

[早川氏]:一応現役のつもりです。

[三津原氏]:雑誌の投稿で、ゲームは何本くらい作りました?

[早川氏]:私は4本投稿して、実際に載ったのは2本だけですよ。採用される率は半分くらいですね。

[三津原氏]:気に入って遊んでいたゲームなどはありました?

[早川氏]:昔、ゲームセンターにあるATARIのゲームは好きで、『ミサイルコマンド』と『ディフェンダー』が大好きです。トラックボールが大好きだったんです。後にWindowsが普及してみんながマウスを使っていた時でも、私は3年くらいトラックボール使ってましたね。端から端まで動かすのが早いんですよ。コロコロじゃなくて、腕使って回すんですよ。『ミサイルコマンド』で煙幕を張る時に、こんな感じでやりますよね。

[三津原氏]:ゲーム、よく遊んでますね(笑)。海外のものが中心です?

[早川氏]:当時、日本のゲームでグラフィックが綺麗というと『パックマン』からですけど、画面全体がスクロールするようなゲームは、日本産はあまりなかったんですよ。ATARIは、グラフィックはしょぼいけど画面全体が動くゲーム、ベクターグラフィックスのようななものとかが多かったですから、どちらかというとそういうのが好きでした。

[三津原氏]:『走れ!スカイライン』に関してですけれど、うち(ハル研)のファミリーコンピュータ用『F1レース』を意識していたそうですが。

[早川氏]:発売が同時期だったと思うんですが、『F1レース』の画面を見て「これ綺麗に動くけどファミコンはラスタスクロールがあるしスプライトがあるし、ハード的にこっちが良いよな」と思い、羨ましかったんですよ。

[三津原氏]:最後に、PC-8001の魅力を教えてください。

[早川氏]:当時として、そこそこカラーのグラフィックが使えたと言うことと、筐体が頑丈だったと(笑)。その頃は、PET2001やMZは金属のケースでした。それに対してPC-8001はプラスチックケースで、しかも非常に分厚くて丈夫なんですよ。Apple IIのような、ポリバケツのような頑丈さが好きなんですよね。画面も一緒じゃないところ、キーボードがカタカタうるさいところが素敵といいますか(会場爆笑)。

[三津原氏]:褒めてますよね?(笑)。

[早川氏]:褒めてますもちろんです(笑)。

[三津原氏]:凄いオチになりましたが、ありがとうございました。


 15時半からは、先ほど質問攻めにあっていたためにゲリラトークができなかった、PC-8001の設計に携わった後藤氏と加藤氏の二人を迎えての、ゲリラトークタイムとなった。


左が加藤氏で、右が後藤氏。二人とも、PC-8001を語るには欠かせないキーマンだ

[三津原氏]:PC-8001を実際に設計して開発されたお二人が来ています。一人目の後藤さんは、いろんなメディアにて出ているので分かると思うのですが、もう1人の加藤さんは、こういう所に出てくるのは初めてですよね。よろしくお願いします。

[加藤氏]:加藤明ともうします。TK-80の開発からこのマイコンの事業に参加してきまして、続いてPC-8001の主にハードウェアの開発を担当しました。

[後藤氏]:加藤君と2人でTK-80を作ってきて、PC-8001からは中の設計は加藤君になる。PC-8801もずっとやっていきますが、今日は色々話を聞いてください。

[三津原氏]:PC-8001を開発された時は、おいくつだったんですか?

[加藤氏]:私が入社したのは1975年です。その年にTK-80の開発を行い、それから3年ぐらいの間に仕込みした後、PC-8001の開発をやったという感じですね。入社3、4年のところですね。

[三津原氏]:入社3、4年でやる仕事があれですか(会場爆笑)。

[加藤氏]:恐ろしい話ですよね。

[三津原氏]:お二人で話をしながら進めていく感じです?

[後藤氏]:彼は、入社する前からマイコンをいじっていたんですよ。

[加藤氏]:研究室で卒業研究というのがあったのですが、あんまり面白くなかった。ちょうどそのときの教授が、インテルのエバリューションボードというのを研究室で買い、置いていたので、「これ勝手に使って良いですか?」と聞いて勝手に使い始めたというのがマイコンとの出会いだったんですね。なにせドキュメントも何もなかったので、添付されている資料を斜め読みながらいじくり回していて終わってしまったのですが、その後もたまたまNECの半導体部隊に就職先が決まり、配属されたのがマイクロコンピュータ販売部というところでしたのでので、まさにマイコンがいじれる。そういう部隊に配属されたということもあり、ここでまたタップリ遊べるなと思ったのが入社直後の思い出です。

[後藤氏]:私たちから見ると、当時マイコンはよく分からないものだったんですけれど、NECでC&Cということを言い始めた小林宏治さんという凄い方がおられまして、その人が「半導体は絶対重要な分野なので、超優秀な人をとにかく放り込め」と言って、若く優秀な人を放り込んでくれたんですよ。そのうちの一人が加藤君だったりしたということです。私が青写真、こんなものを作りたいんだと言うと、作ってくれたのがこの人たちだったのです。僕が実際に設計を書いたのは、TK-80だけでしたけど。

[加藤氏]:本来は、技術者の教材として出したTK-80です。発売後、ラジオ会館にBit-INNを開設し、そこをサービスルームにしました。

 実は私も長い間、Bit-INNに土日交代で出ていたのですけど、そこにいろんなユーザの方、特に企業の技術者というよりはホビイストの方、ゲームをやられる方が大勢いらっしゃって、そういった方々の意見・要望がBit-INNでたくさん耳に入ってきた。これを会社に持ち帰り後藤さんなどといろいろディスカッションをして、どういうものを作ろうかというのを決めていったというのが、PC-8001開発のスタートになる背景だったと思うんですね。

[三津原氏]:PC-8001を作っていて、苦労されたところはありますか?

[加藤氏]:仕様を決めるのは何となく自然に進んだのですが、実際に実現しようとするとなかなか難しいところがあって、ディスプレイに絵を出すというのが実は私の設計では初めての経験だったんです。TK-80にBASIC STATIONというのが乗ってBASICが動くというのをNECが出していたんですけれど、これが実はOEMで、社内の開発じゃないため直接タッチはしていなかったんです。当時PCX-01という開発コードで開発していたPC-8001を作ろうとしていた時に、ディスプレイに絵を出すという部分の回路というのが未経験だったので、経験なしに開発するというので苦労したというのが一点目。

 もう一点が、マイクロソフトのBASICを載せようということで、マイクロソフトは当時シアトルのベルビューにあったのですが、そこで開発環境を立ち上げて維持するというのが結構苦労しました。当時はプリント基板を簡単に作れる時代ではなかったので、実際の開発キットというのはA3くらいかな? そこにラッピングでICソケットをゴチャっと並べて、裏側をラッピング配線して、それで開発環境を作りました。これをシアトルに運び、マイクロソフトの開発のフロアで安定して3カ月4カ月動かすのが至難の業で、それに非常に苦労しました。会社の実験室で調整して、それを飛行機に乗せて持ち込むんですが、ジュラルミンのカバンに入れて運ぶものの向こうに着くともはや動かないんですよ。ところが、マイクロソフトの環境にはそういうのをデバッグするようなオシロスコープもなければ何もないという状態で、これをちゃんと調整するのに苦労しました。しかも、向こうで調整して帰ってくると「また動かんぞ」というFaxが入り、1日もたたずにとんぼ返りというようなことも何回かあったのを覚えています。それ以外は、非常に楽しみながら開発ができたというところですかね。

[後藤氏]:本当に苦労してやってもらったんですね。私が苦労したのは、当時ちょうど電波の規制が始まったばっかりで、まだまだじゃじゃ漏れなわけです、妨害電波が。それを日本のJMIというところで予約してテストをやるんですが、目白押しで予約もできない。そこで、アメリカの屋外で電波の飛んでこない牧場みたいなところがあるんですけれど、そこにアンテナを持ち込んで計るとか、そんなことをやっていましたね。TDKさんのフェライトビーズをごそっと溜めて持っていき、片っ端から入れていくんですけど、少しずつ取っていくんですよ。全部入れるのがもったいないから(笑)。そんなことをやってました。

[加藤氏]:入れすぎると動かなくなっちゃうんですよね。

[後藤氏]:波形がなまるから、ダメなんですよ。そんなことが経験になりましたよね。

[加藤氏]:そうですね。みんな初めての経験だったので、理論で考えればできるんでしょうけれど、そんな理論も持ってないし、勘と経験の世界で調整をしていくという感じでしたね。

[後藤氏]:長い間、NECのパソコンを一生懸命応援してくれて、感謝しております。

[加藤氏]:NECのパソコン、ハードウェアは我々が作りましたけれども、その上にアプリケーションソフト、特にゲームですね。これがたくさん作られて、それがみんなに行き渡りみなさんが遊ぶことができたというのが、我々にとっても一番幸せなことだし、ユーザーさんにとっても幸せなことだったんじゃないかなと思います。本当にありがとうございました。

[三津原氏]:今日はありがとうございました。