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PC-8001はこうして生まれた!生みの親 後藤富雄氏と加藤明氏にPasocomMini仕掛け人 三津原氏が聞いた!

【三津原さんのパソコンミニ対談 第4回】

 パソコンミニ対談、久しぶりの掲載となる第4回目は、PC-8001の生みの親である後藤富雄氏と加藤明氏をお招きした。後藤氏、加藤氏ともにPC-8001の先祖とも言えるTK-80時代からかかわっているということで、その当時の貴重な資料とともに話は大きく盛り上がり、開発されたばかりのマイクロコンピュータチップ話にも花が咲いた。その模様を、余すところなくお届けしよう。

後藤富雄氏(左)と加藤明氏(右)。日本のパソコン史に大きな足跡を残したお二人にお話しを伺った。

 なお、今回から本企画のタイトルが「ハル研所長のパソコンミニ対談」から、「三津原さんのパソコンミニ対談」へと変わった。これは三津原氏がハル研究所所長職を離れ、PasocomMiniシリーズアドバイザーに就任したため。肩書きからも分かるように、今後も三津原氏はPasocomMiniを強力に推進してゆくとのことだ。

まずMTK-80、そしてTK-80があった

三津原敏パソコンミニシリーズアドバイザー。PasocomMiniプロジェクトの仕掛け人としてパソコン、マイコン黎明期のレジェンド達と日々接しているが、今回の対談は、ひときわ緊張したそうだ

[編集部]:まずは、お二人がマイコン開発に至るまでの経緯を教えてください。

[後藤氏]:半導体黎明期の、昭和42年にNECに入社しました。配属先は電子デバイスグループという、コンデンサからトランジスタまで作っている事業グループ。その設備部で、計測装置を設計調達する部隊です。そこで6年くらい経ったところで、九州日本電気に派遣されました。しかし、赴任して2年目くらいにオイルショックがありまして、仕事が徐々に入ってこなくなり……一時期は、草むしりみたいなことまでやっていました(笑)。 17時を過ぎて就業時間が終わると、Intelのマイクロプロセッサ4004を使ったキットで実験をしていました。高速のテープパンチャーとテープリーダーを作って動かしていたのです。4bitでも、ちゃんとやってくれるんですよ。すると、「今度マイクロプロセッサ8080というのを作って事業をやるが、アプリケーションを作るエンジニアがいないので帰ってこないか?」と(元NEC支配人で、パソコン事業立ち上げの責任者だった)渡辺和也さんから声をかけられて、東京に戻りました。

後藤富雄氏。TK-80をはじめ、PC-8001やPC-8801、PC-100、PCエンジンなどを手掛けた人物。PC-8001では、開発リーダーを務める

[編集部]:加藤さんは?

[加藤氏]:私は昭和50年にNECに入社しました。ちょうどオイルショック直後くらいで、入社後1カ月は会社に来なくてよい。自宅待機で、と言われました。仕事がないので、1カ月給料を払えないからだそうで。通常、入社は4月1日なのに、私は4月30日でした(笑)。マイコンとの出会いは、大学の卒業研究のときです。研究は全然別でしたが、たまたま教授が(Intelのマイクロプロセッサ)8008の評価ボードとASR-33というテレタイプを購入し、これをつないで何か動かしたいからやってくれと言われたのがきっかけです。マニュアルは、英文で書かれたものだけ。プログラムを眺め、試行錯誤するとASR-33がガチャンと動く。ある意味、高いおもちゃだな、と思いつつ半年くらい触っていました。

加藤明氏。TK-80やPC-8001、PC-8801の開発を行なう。後に、PC-9821シリーズの開発などにも携わった

[三津原氏]:それがきっかけでNECに?

[加藤氏]:そういうわけではないのです。NECを志望したのは、実は大型コンピュータがやりたかったからです。でも入社して配属されたのが、後藤さんと同じ半導体事業部。そこの選択肢の一つにマイクロプロセッサがあり、これは学生時代に遊んだアレでは? となり、それならマイクロプロセッサの仕事がしたいと入社時の面接で伝えたところ、配属になりました。後藤さんや私がいた部隊は主にサポートで、私はNECオリジナルのマイクロプロセッサμPD753という8bitのCPUを使った開発ツール、PDA-80の面倒を見ている部隊に配属されました。ここには4bitグループと8bitグループがあって、私は最初8bitグループに配属されていました。後藤さんが九州から帰ってくると、16bitグループを作ろうということで、後藤さんが立ち上げ始めます。そうこうしているうちに、マイコン売らないといけないから、まずは教育教材を作らないと……という話が出ました。そこで、マイクロコンピュータ販売部というのができまして、その中でTK-80開発が始まることに。

[後藤氏]:その前に、まずはこっちからいきましょう。

後藤氏が“こっちから”と言って見せてくれたのは、TK-80の前身となったハード。名前はMTK-80で、正式名称は「マイクロコンピュータトレーニングキット80」。TK-80と比べると二回りほど小さく、縦に積んであるのが分かる

[加藤氏]:MTK-80は私が入社して半年くらいに、営業から「電電公社横須賀通信研究所(横須賀通研)から新入社員用に、マイコンの教材を作ってくれ」という引き合いがありまして、後藤さんと私が二人で命を受けて作り始めたものです。私は右も左分からない状態でしたが、そこは後藤さんがすごい。こういうことをやればキーが動くとか、LEDで16進が表示できるとか、そういうアイディアを……。

[後藤氏]:僕は、それだけを言うんですよ。すると、加藤さんがものにしてくれる。当時、海の向こうで出ていたBYTE誌とかの雑誌を読んでると、(マイクロプロセッサ6502のキット)KIM-1の広告が出ている。見ると、LED表示がアドレスが四つでデータが二つの6桁。しかも、プログラムが走り始めると表示が消えるので、どうなっているかが分からない。われわれは、開発ツールに変わるものをやらなきゃいかんねということで、単体でも動くし、プログラムが暴走してもLEDは点灯していることなどを自分たちで決めてやりました。

[三津原氏]:設計は後藤さん、製作は加藤さんなのでしょうか?

[後藤氏]:コンセプトは後藤さんが考えています。私はNECに入社後、勉強しながら評価ボードのマイクロプロセッサ8080版の開発を一時期やっていたのですが、その財産を後藤さんのアーキテクチャと組み合わせて作業したので、意外と早くこの形ができました。

[三津原氏]:脳内になんとなくあった?

[加藤氏]:そうそう、そうです。すんなり動いたし、一番めんどうなキーボードの考え方や表示のスキャニングなどは後藤さんのアイディアがあったので、これを回路に落とせば問題ないと。

[三津原氏]:必要なプログラムも加藤さんが?

[加藤氏]:私がモニタを書いたのですが、実は容量に収まらなくなりまして。それを圧縮するヤツがいて、彼が職人技でギュッと縮めて、この3チップに入れてくれました。

[後藤氏]:当時から省メモリ化。メモリは貴重だったんだよね(笑)。

[加藤氏]:1バイト削るとか、そういう積み重ねですね。なにせ、756バイトしか載っていませんから。これに、当時の8bitマイコンが持っている機能が、全部入っているわけです。通常のメモリアクセスだったりROMアクセスだったり、DMAやっていたり割り込みがあったり。教材としては、よい感じです。

[三津原氏]:当時の納品台数は、どのくらいでした?

[加藤氏]:後藤さんの記憶では3台か4台、私の記憶だと10台くらいはセットを作ったかなと。全部を横須賀通研に納めたわけではなく、また横須賀通研も通研として全部買ったのではなく、一研究室のアイディアでの注文でした。そしてMTK-80も、実は組み立てキットだったんですよ。私たちで、部品を袋詰めして収めました。

[三津原氏]:その数少ない台数のために、説明書を書いたんですね。

[加藤氏]:方眼紙にロジックテンプレートを描きました。ちなみに、PC-8801でも手描きです。

[三津原氏]:MTK-80完成後、これを製品化しましょうということでできたのが、TK-80なのですか?

[加藤氏]:そうそう。TK-80は、回路図もMTK-80とほぼ同じです。

[後藤氏]:私がスケッチで“CPUはここ”とか1枚のイメージ図を、相模原のプリント盤の事業部に「お願い、配置して!」と頼んでできたのが、TK-80です。

[編集部]:これは何層基板なのですか?

[加藤氏]:表と裏の2層です。

[編集部]:拡張性も残して作られていますよね。

[加藤氏]:ここのエリア(基板の四角くスペースが空いている部分)が拡張エリアになっていますが、これはたまたま空いたんですよ。もったいないから、ここに汎用ポートが出ています。いろんな人がインターフェースを組んでいたので、結構重宝されたと思います。

[後藤氏]:後で反省したのは、ラズベリーパイのように、スタンディングにしておけばよかったかなと。

Bit-INNはもしかすると“ムカデハウス”という名前になっていた!?

[編集部]:当時はコンピュータのことが今ほど理解されていませんよね。サポートも大変だったのではないですか?

[加藤氏]:大変でした。ただ、Bit-INN(かつて秋葉原にあったNECのアンテナショップ)がその役割を果たしました。Bit-INNは、TK-80が出たときにサービスサポートが必要だからということで、秋葉原の(当時の)ラジオ会館7階に設置されました。

[編集部]:TK-80が1976年の8月に発売されて、その1カ月後の9月13日にはBit-INNがオープンでしたけれど、こちらでもTK-80は販売されたのですか?

[加藤氏]:もちろん行なっていました。

[編集部]:Bit-INNというネーミングは、どうやって決まったのですか?

[後藤氏]:候補はいろいろ出ましたが、最後にBit-INNで落ち着きました。

[加藤氏]:最後まで残ったのが、Bit-INNとムカデハウス(笑)。ムカデハウスにならなくてよかったなと(笑)。

[後藤氏]:Bit-INNに決まった理由って、何でしたっけ?

[加藤氏]:響きもよかったからだったと思います。

[編集部]:Bitは、1bitのbitなのでしょうか?

[加藤氏]:そうそう。

[編集部]:INNは、チップの寝る宿屋?

[加藤氏]:そう。ビットの宿です。ムカデハウスは、社内では結構人気ありました(笑)。最後に誰が決めたかは覚えていませんが、この2案に絞られて“あーだこーだ”と言っていたのは横で聞いていました。

[三津原氏]:Bit-INNができると、毎日詰めるように……。

[後藤氏]:毎日ではなく、交代で行っていました。

[加藤氏]:マイコンの部隊だけではなく、半導体のサポート部隊も交代で来てくれました。

[編集部]:自分たちはエンジニアなのに、サポートも? とは思いませんでしたか?

[後藤氏]:それはなかったですね。

[加藤氏]:同じく、全然思わなかったです。組み立てキットで出したからには、めんどうを見ていかないと世の中で受け入れられない状態になっちゃうのでは、という意識がありまして、出張ってお客さんをサポートするのは当面は当然かな、というイメージがありました。実際に現場に出てみると、大勢のお客さんを見ることができておもしろかったです。

[編集部]:持ち込まれた問題の中で多かったのが、芋ハンダと、電源がないという質問だったと聞いたことがあります。

[加藤氏]:電源、付属していないですからね。

[編集部]:そこで、電源売ったらどうかという持ち込みがあったんですよね。

[後藤氏]:株式会社アイ・シーさん。

[加藤氏]:そこから、比較的早い時点で電源の提案がありましたね。

[編集部]:これ、5Vと12Vの2系統ですよね。

[加藤氏]:もともと、われわれの発想は一般のお客さんだけではなく企業の技術者向けに売ろうということなので、組み立てれば電源なんていくらでも実験室に転がっているだろうと思っていました。それに、電源を付属させると当時は高いじゃないですか。だから、ナシにしたのです。

[編集部]:もしかすると、100Vを使う人が大勢……?

[加藤氏]:本当に100V入れた人もいるし、ハンダ付けはともかくひどかったですね。なかでも一番だったのは、接着剤で付けたという人(笑)。

[編集部]:年齢層はどうでした?

[加藤氏]:まさに、幅広い年齢層の方がいました。

[三津原氏]:従来と違い一般層のお客さんが来るようになって、これまでと変わったという空気はありました?

[加藤氏]:ありましたね。たとえば、お子さんがTK-80を買って組み立てるも、トラブルがあったのでお母さんと一緒に相談に来る、というケースもよく見ました。

[後藤氏]:社内の偉い人、技師長さんクラスの方が「自分で好きにいじれるコンピュータが欲しかったんだよ」と言って買っていくこともありました。

これが、今や貴重品となったTK-80。もう1枚の写真は、1977年末に発売されたTK-80の廉価版・TK-80Eのパッケージ。こちらも、めったに見ることができない逸品だ

PC-8001は半年分のバックオーダーを抱えて、お客さんから怒られた

[三津原氏]:いよいよ本題ですが、PC-8001は会社からの指令で作ることになったんですか? それとも、自分たちの提案ですか?

[加藤氏]:TK-80の後にTK-80BS、COMPO BS/80と出すんですが、それを見ていて“これじゃダメよね”と後藤さんと話していたんです。当時アメリカでパソコンが立ち上がってきていて、後藤さんはそれを出張して見て、自分の中にインプットしてきている。その上で、われわれ内部で話をしている間に“次の世代のパソコンをわれわれで作ろうじゃないか”という話になりました。

[編集部]:COMPO BS/80は、全然違うところが製作したんですよね。

[加藤氏]:外注でしたね。完成したものが持ち込まれ、それを仕入れて売った。だから、われわれは中のアーキテクチャがどうなっているかを知らないんです。もともとは、TK-80BSではありますが。持ち込んだのは、日本マイクロコンピュータ(現・ジェイエムシー)ですね。横浜Bit-INNをお願いしていた会社ですが、そこがベーシックステーションを提案し、NECが採用して、最終的に箱に入れた完成品がCOMPO BS/80です。

[三津原氏]:BASICも独自で作られていた?

[加藤氏]:そうそう、日本マイクロコンピュータが独自に作ったBASICですね。

[三津原氏]:その後、お二人が構想を練り始めたものがPC-8001に。

[加藤氏]:結構議論はしましたよね。

[後藤氏]:そうですね。ちなみに、COMPO BS/80の互換を継承しなかったのは、継承も何もなかった。値しないから。僕たちは部品屋の発想をするんですが、そこでは世界標準になるような仕事をやらないとダメだよねとなるんです。

[三津原氏]:その頃には、目線はもうユーザーに?

[加藤氏]:それに近いですね。いかにしてユーザーに受け入れられるようなコンピュータを作れるか、そういう発想です。ユーザーの声はBit-INNで数多く聞きましたから、イメージはみなさん共有できていました。

[後藤氏]:情報を出すこと自体が一番重要で、それをうまく利用して製品を作ってくれるお客さんたちがドンドン出てくれればうれしい。一番よいのは、大きな企業の人がそれに気が付いて、やってくれること。今でいう、オープンイノベーションの走りだった。

[三津原氏]:PC-8001はZ80互換CPUを採用していますよね。当時は海外のPCを参考にしていたそうですけれど、海外は8080採用機種が多かった印象があります。なぜ8080ではなくZ80に?

[加藤氏]:CPUの性能的には、Z80のほうが命令が追加されているので使いやすいということがありました。また、たまたまNECがZ80の互換チップであるμPD780をやり始めたので、それを使うことにしました。

[編集部]:「PC-8001にはフロッピーディスクドライブ(FDD)もつなげられるようにすると後藤氏は決めた」と当時の文献にありますが、最初のパソコンからFDDを接続できるようにしたのはなぜですか?

[後藤氏]:FDDがないと、実用にならないでしょう? “8bitパソコンというのは実用的ではないよ”と言われていた時代に、AppleⅡにはスプレッドシートのソフトとかが出ていましたよね。あれは、FDDをサードパーティではなく自分たちの製品として安い値段で普及させたからですよ。だから、ストレージとディスプレイとプリンタの三つは、絶対私たちが出さないとダメだと。

[加藤氏]:当時、外部記憶媒体としてはカセットテープがありましたが、これでは実用的じゃないねと。ゲームソフトを入れておくという用途でも苦労するくらいなのに、たとえばOA的な使い方をしようなんて考えたら、カセットではとてもじゃないけどできないねと。そうすると、当時外部記憶媒体として8インチのFDDはあったので、そういうものをラインナップに加えていかないと、というのはありました。

[後藤氏]:5インチFDDとFDは、当時は群雄割拠でした。安いのを作り始めたのがティアックかな? そこに“次使うから研究して”と。あの頃は、FDDもFDも、開発途中なんですよ。媒体が、まだダメでした。

[加藤氏]:FDを回転させると、磁性体の粉が出ちゃうんです。そうして使ってるうちに、エラーが出て読めなくなる。

[編集部]:それで、ディスク内部の不織布(ライナー)を工夫した。

[加藤氏]:もともとライナーはあったんですが、細かい磁性体の粉が出たとき、うまい具合に吸着してくれない。そうするとエラーが出るので、材質や荒さなどを工夫したそうです。確か、日立マクセルがやったんだと思いますけど。そこで何カ月か苦労してよいライナーが完成し、初めて5インチのFDDが実現できます。

[編集部]:当初は、8インチFDDで計画していました?

[後藤氏]:いやいや、8インチは付け足し(笑)。PC-8001に8インチFDDはでかいよね、という思いが最初からありまして、あれはIBMの大型機とのデータ互換用途だけです。“それは必需品だ”と情報処理部の人たちに言われて、作ったんです。すると、後にPC-98の部隊が僕らの事業部から買ってくれた。

[加藤氏]:高く買い取ってくれた気がします(笑)。

[編集部]:ついでに価格の話ですが、FDD(PC-8031)は本体より高い318,000円でした。

[加藤氏]:それ以外に、インターフェースボックス(PC-8011または8012)が必要でした。

[後藤氏]:当時、これ(PC-8031)だけで使っていた人もいましたね。自分たちで設計した機械に接続して使う。

対談当日に持ち込まれた当時の写真。上部に見えるのが、インターフェースボックスとFDD。その下は、当時のMicrosoftにて撮影されたもの。加藤氏だけでなく、MSXなどでおなじみの西氏の姿も

[三津原氏]:第3回マイコンショーでPC-8001を発表したときは、TK-80のときと同じようなお客さんがたくさん来場していたのですか?

[加藤氏]:そうですね。まだマニアですね。

[後藤氏]:メディアが取り上げたから、認知度は高まったでしょうね。品薄になりました。

[編集部]:半年分のバックオーダーを抱えたんですよね。

加藤氏:そうですね。全然生産が追い付かなかったです。結果的には人気を煽った感じになり、会社がお客さんから怒られましたね(笑)。

[三津原氏]:工場のラインで作っていたんですか?

[加藤氏]:生産工場は溝の口で、テレビを作っていたラインを間借りしました。当時は新日本電気で、その後のNECホームエレクトロニクスですね。

[三津原氏]:テレビのラインを間借りする形だったんですね。最初にPC-8001を設計されたときには、どんなお客さんを想定していました?

[加藤氏]:ゲームやマニアに使われるというのは当然意識していて、セミグラフィックスモードなどは、そういうところをターゲットにして設計しました。後藤さんがさっき言われた、FDDがあってプリンタがあってカラーディスプレイまで全部揃っているのは、どちらかというとOA的な発想です。そしてもう一つ、私がイメージしていたのが、FA的な使われ方。制御に使われるのではないかという発想があったので、拡張ユニットはまさにそのために開発しました。実際に、当時プリント盤をお願いしていたプリント盤事業部の量産工場が富山をはじめ何カ所かあるのですが、そこではPC-8001+拡張ユニットでラインの制御をずいぶん長い間やっていました。ディスコンにしないで、と、よく言われました(笑)。

[編集部]:当初、発売予定が8月だったものが1カ月延びましたけど、これは何があったんですか?

[加藤氏]:多分、ROMが間に合わなかったかと。Microsoftのリリース日程が延びたためだったと思います。第3回マイコンショーのときは本体下にPROMボードを抱いていて、Microsoftがリリースした最新コードのバグありバージョンでデモを動かしていました。ROMは、Microsoftがまだ開発の真っ最中で評価もやっていたので、ラッピングで作った評価ボードをシアトルに持っていき、その上でビルゲイツ氏などが開発をしていたんですが、これがしょっちゅう壊れるんですよね。それを直しに私が日本から飛ぶというのが何回かあり、そのつど“ROMの最新バージョンを持って帰ってこい”という会社からの指示が出ていてで、修理が終わっても最新バージョンが出るまでは帰ってくるなと(笑)。当時はダウンロードなんてできないので、滞在してコードをもらって帰国する。そうして、何回かに分けてリリースを受けて、これで大丈夫というバージョンが出てからマスクをおこす。その時間が、1カ月延期につながったと思います。

[編集部]:実装後、N-BASICにバグが出ましたよね。

[加藤氏]:バグは出るだろうということで、あらかじめROMの中にフックがいくつか仕掛けられていて、外で直せるような仕組は一応設けていました。最初は、それで対処したんじゃないかと思います。そして、あるタイミングで差し替え。出荷したものを全面的に交換、ということはなかったですね。

[後藤氏]:あの頃は、ディスプレイコントローラとFDDコントローラを社内で作っていたから、最先端チップが社内にあったから、これだけ高性能なよいものができたんだよね。

[三津原氏]:ここでぜひ聞きたいことがあるのですが、ハル研がPCGボード(PCG-8100)を出しましたよね。あれについては、正直どう思われました? PC-8001を作った側から見ると、ちょっと強引な仕組に見えませんか?

[加藤氏]:設計上から見て、それで動作保証ができるのかなという心配はありましたが、商品化されてちゃんと動いているんだから大丈夫なんだろうと思いました。標準では不可能な機能を外付けで実現していただいて、かつそれが市場で受け入れられてアプリケーションが出てきて便利に使われているというのは、われわれにとっては非常にうれしい話かなと。仕様的に動くのかな? とかいう発想は、あまり持たなかったです。

[後藤氏]:昔からサードパーティさんが、こちらで欠けてる機能をいろいろやってくれるというのはうれしいこと。ダメだったら戻せばよいだけだし。

[加藤氏]:フラットケーブルで信号を引き延ばすというのはリスクがある、というのは分かっていて……実はPC-8001の後ろのバスからPC-8011などに接続していますよね、そこもやっぱりリスクがあって、グランド(GND)が弱くなるんですよね。単純にフラットケーブルで引き延ばすと、ちゃんと動かない。シールド付きで電源強化したフラットケーブルを使い上手につないで動かしたものの、そこはリスクがあるねと。設計上、本当に大丈夫? と問われると、なかなか説明しづらいところがどうしてもあるなという気もしますから、同じ想いをされたのではないかと。

左がPC-8001で、右が当時のハル研が発売したPCG-8100。本体からフラットケーブルを伸ばして接続する仕様だった

[編集部]:とはいえ、PC-8001はかなりいろいろなことができますよね。

[加藤氏]:拡張性も、最初から考慮していました。本体になかった汎用スロットを外に付けられるようにしようという発想も、ここでできました。

[後藤氏]:セントロニクスインターフェースにしようと言うのも、とにかくこれから標準で乗せる奴にしなきゃいけないということで、パラレルにした。カラーCRTは当時高かったですが、新日本電気がブラウン管ディスプレイ屋として頑張ってくれました。それでも高かったですが。

[加藤氏]:モノクロのグリーンディスプレイと一緒に両方出しましたが、カラーが21万円でモノクロ10万円。CRTコントローラμPD3301のタイミング設計をやるときに、当然ディスプレイも一緒に開発しなきゃいけないので、当時の新日本電気のテレビ部隊の中に、パソコンのディスプレイをやってくれる人がいて、その方と一緒にタイミングスペックを揃えたんです。クロックはどうで、水平垂直のタイミングはどう設計するのかと。テレビをベースにパソコン用のモニタを作るという開発をするときにも、タイミング的にはどういうところだったらできるのと聞きました。テレビはNTSCでタイミング設計が違うので、そのベースの技術をパソコンに転用してやったらどういうことができるのかというのを検証してもらい、タイミングやスペックを詰め、PC-8001のCRTのタイミングを決めたんです。そのときに40文字モードや80文字モードだったり、20行モード25行モードなどのモードをいくつか持たせ、それぞれタイミングスペックが違うけれどもモニタには引き込んでもらわないといけないので、それがうまくいくタイミングスペックで双方合意して開発をしました。

[後藤氏]:それがマルチシンクで、後々NECが出したブランドのモニタになるやつです。

[編集部]:TK-80と比べると、規模が大きくなりましたよね。

[加藤氏]:PC-8001のブレッドボードは、TK-80の2枚分くらい。ラッピング配線で全部作り、それをMicrosoftへ持っていきました。

[編集部]:怪しい基板に見られますよね。

[加藤氏]:シアトルの空港で、よく捕まりました(笑)。

[三津原氏]:本体デザインは、どちらが手掛けたんですか?

[加藤氏]:社内です。当時NECデザインセンターという一部門で、その後子会社になったんですが、そこの一担当者と議論しました。

[後藤氏]:最初にデザインが来たとき、後ろに少し出っ張ってたんです。それを偉い人が“もう少しなんとかならんのか”と。そのアオリを喰らったのが、その新電元工業株式会社(新電元)のスイッチング電源。周波数を上げてやらないと、小さくならないじゃないですか。そんな感じで、デザインはうるさかったです。ちなみに、新電元はスイッチングレギュレータで有名な会社です。

[加藤氏]:デザインが変わると、全部にしわ寄せが来るわけです。基板も小さくしないといけないですが、電源が一番アオリをくらったかもしれない。

[編集部]:それでも納期は延びない。

[加藤氏]:結果的には、ROMが伸びたので(笑)。

[編集部]:PC-8001は、現代にも通じるスタイリッシュなデザインですけれど、PC-88シリーズやPC-98シリーズは直方体のごついデザインになりましたよね。

[加藤氏]:あれは、キーボードを分離するという発想が次に出てきたので、それの影響が一番大きかったです。分離するとその分だけロスが増えるので、全体としては大きくなってしまう。うまい具合にキーボードの中に基板が入っていると、PC-8001のようになります。

PC-8001は、クリーンコンピュータではなくダーティコンピュータ!?

[三津原氏]:電源ONでBASICが起動する仕様は、最初から必須だと考えられていたのですか?

[加藤氏]:そうですね。ROM BASICを入れようというのはもともとの発想です。使い勝手からですね。

[後藤氏]:BASICをフロッピーから起動しても時間がかかるし、カセットでは当然とんでもない時間になる。シャープのMZ-80Kは、カセットからBASICなどをロードするクリーンコンピュータとうたっていましたけれど、渡辺和也さんは「うちのPC-8001はダーティコンピュータだ」と(笑)。「ダーティでも良いんだ、すぐ動くから」というのが渡辺和也さんの口クセでした。

[三津原氏]:電源ONで、すぐに使えるのは楽ですよね。

[加藤氏]:それにこしたことはないですよね。でも恐れ知らずでしたね、バグがついて回るわけですから。

[後藤氏]:あれは、中でマスクROMを作る部隊を持ってる特権なんですよ。最優先で作ってもらえる。

[加藤氏]:普通はマスクROM作りに3カ月とか言われるのに、最短で1カ月未満でできちゃうから。これからは、社内でチップ作りをやっている、部品づくりをやっているというのを最大限利用してやろうと、自然にそういう考えになっていきました。

[三津原氏]:カラー出力ができることも、最初から考えていたのですか?

[加藤氏]:最初からですね。世の中にTSSターミナル(ダム端末)みたいなものが結構出始めていて、これにはモノクロでテキストで入力できる機能がありました。でも、ゲームなんかは色が出ないとおもしろみがないね、ということで、カラーを表示したいというのはもともとから考えていました。しかし、CRTコントローラでカラーが出力できるものが当時はなかった。そんな中、たまたま半導体事業部が新しいディスプレイコントローラのμPD3301を開発したという話が入ってきて、それがアトリビュート機能の中でカラーが使えるというので、これだと。ちょうど、PC-8001の仕様を議論している間にμPD3301が使えるよという話が入ってきたので、それに乗っかりました。社内で最先端のチップを使えたというのは、幸せでしたね。

[三津原氏]:アトリビュートは、制御が難しいですよね。

[加藤氏]:そうですね。とにかく当時は完成したばかりだったので、ドキュメントもない。ただし特権があって、実際に開発している担当者が同じフロアにいるんですよ(笑)。だから、分からなかったらそこへ駆けつけて「どうなの?」と聞くと教えてくれる。いちいち、遠方や他社へ電話する必要もない。

[後藤氏]:最先端のチップはお客さんが限られているから、すごいマニュアルなんて書かない。

[加藤氏]:ドキュメントは、ほとんどなかったですね。

[編集部]:私も最初、理解ができなかったです。

[加藤氏]:Microsoftのルーチンは、スピードやパフォーマンスは二の次だった気がします。どちらかと言うと、汎用性を高めるようなコードになっていたと思います。

[後藤氏]:使い回しがきくように。

[加藤氏]:PC-8001だけにチューニングするのではなく、ベースのコードを作ればそれをどこにでも売っていきたいという発想だからじゃないかと思います。だから、チューニングしないのは仕方ない。デファクトスタンダードでやろうというものの宿命ですね。代わりに、サードパーティの方やソフトの方が努力して素晴らしいものができたという感じですね。

当時を振り返りながら熱く語る3人

[三津原氏]:PC-8001を世に出して、世の人が使っているのを見て、自分たちの考え方と同じところ、違うところ、こうすればよかったという部分、そんな感想があれば聞かせてください。

[加藤氏]:PC-8001の世代では、OA的な発想にしても日本語が出せたわけではないし、FDDなどを全部揃えられたとしても本格的にワープロとして巧く使えるものができたわけじゃない。それは逆に言うと、その時代にできる精一杯のこと。次の世代に引き継いでいこうという発想でPC-8801が出てきたのは、それはそれで仕方のないことかなと思いますね。PC-8001のおかげで、日本でのパソコンという文化が立ち上がってきた。そういうきっかけになったというのはわれわれとしては幸せだし、設計者として携われたことも幸せだったし、そこから以降、私のNEC人生の半分くらいはそこにずっと費やされてきたというのもあるから、それもまた幸せですね。

[後藤氏]:個人的に、パソコンを作っているときに(アスキー創業者の)西さんとよく話していましたが、パソコンって何だろうと。“僕らは自転車を作っているんだよね”という感覚で、自分で運転してどこにでも行ける、自由が利く。“やれ”と言われてパソコンに向かうのではなくて、自分の意志でパソコンに向かい、それで何か新しいことをやり、結果的に仕事になったり会社を興すことにつながった。そう考えると、すごくよい仕事をさせてもらったなと。今でも思いますが、会社のために作っているんじゃないんですよ。僕ら従業員というか、個人個人の思いでやっていた。今でもそうなんです。

[三津原氏]:ホントに好きで作られたTK-80とPC-8001は、“作らされていない”ということですよね。

[後藤氏]:まさにそうです。

[三津原氏]:ありがとうございました。