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『マイコンBASICマガジン』などで活躍した森巧尚氏が語る、あの“高橋はるみ”さんとの関係とは!?

【三津原さんのパソコンミニ対談 第5回】

 PasocomMiniシリーズ仕掛け人である三津原敏氏のパソコンミニ対談。5回目となる今回は、『マイコンBASICマガジン』などへのPC-8001関連投稿プログラムでおなじみの、森巧尚氏をお招きした。当時、多作で知られた森氏。多数の応募の中から掲載されるプログラムをどうして大量に制作できたのか? さらには、謎多き女子高生プログラマの高橋はるみさんは、森氏のペンネームだったのか? などなど、三津原氏が当時から気になっていたマニアックな話題に一気に切り込んだ。

今回の対談させていただいた森巧尚氏(写真左)と、PasocomMiniシリーズ仕掛け人である三津原敏氏(写真右)。三津原氏からプログラマ視点のマニアックな質問が出るわ出るわ……の展開に

最初に買ったマイコンは、見た目重視でベーシックマスターレベル2だった

森巧尚(もり よしなお)氏。当時、電波新聞社の『マイコンBASICマガジン』、『マイコン』などに数多くのプログラムを投稿していた。現在はフリーランスの立場で書籍の執筆や、学校でプログラムの授業を受け持つ。「Python 1年生 体験してわかる!会話でまなべる!プログラミングのしくみ」(翔泳社)と一連のシリーズはAmazonでも人気のPython入門書だ。

[三津原氏]:パソコンを始めたきっかけは何だったんですか?

[森氏]:電子工作が好きで、『ラジオの製作』に載っていた“ルーレット”や、 “サイコロ”を部品を買ってきては作っていました。そんな部品を調達しては完成品を一つ作る、という状態だったところ、マイコン雑誌を見たら、入力するだけでゲームがたくさん作れるコンピュータというものがあると知りまして。当時はマイコンが出始めたときで、最初に飛び付いたのがMZ-40Kでした。音楽を鳴らせるし、目覚まし時計もできるし、とすごく喜んでいたら、今度はテレビにつながるPC-8001などが出るということで“おー!”となったんですが、ちょっと高い。お金をためていたところ、ベーシックマスターのレベル2が出たので買った、というのが初めてのパソコンでした。丸っこくてかわいくて絵もきれいということで、スペックよりも見た目で決めました。

[三津原氏]:MZ-40Kを購入したときは何歳ですか?

[森氏]:小学校六年か中学校一年か、そのくらいだと思います。『科学と学習』とか『ラジオの製作』などの後ろのページに載っている広告が情報源でした。小さく掲載されているのを、ずっと見ていましたね。

PasocomMiniシリーズの仕掛け人にして、現在はパソコンミニアドバイザーとして活躍中の三津原敏氏。今回の対談も、非常に楽しみにしていたそうだ。なお、背面のテレビに映っているのは、森氏が当時投稿したプログラム「ハートキャッチはるみちゃん」だ。

[三津原氏]:プログラムは、完全な独学だったのですか?

[森氏]:その当時、知っている人がまわりにいなかったので独学ですね。

[三津原氏]:やっぱりそうですよね。

[森氏]:電子工作のときも、抵抗やトランジスタが必要だなということで近くの電気屋さんに聞きに行くと「はぁ?」という顔をされて、そんなの知らない、売ってないよ、と言われてショックを受けることも。大人に聞いても分からない人が多いから、それなら自分で調べればいいや、というところから来ています。なので、まわりの人から教えてもらうという発想はまずなかったですね。

[三津原氏]:電子工作では、回路図を書いたりしたのですか?

[森氏]:回路図を書けないので、完成している回路図を見てそのとおりに配線しました。でも、(振り返って見ると)ハードよりソフトがやりたかったんだろうと思います。

[三津原氏]:そんな森さんは、すごい数のゲームを作りましたよね。

[森氏]:そうですね。ベーシックマスターを買ってから、毎日ゲームを作っていました。その頃に『ラジオの製作』の付録として『マイコンBASICマガジン(ベーマガ)』が出ていて、プログラムを投稿できるし、ほかの人のプログラムも見られるということを知りまして、そこで“じゃあ出そう!”となって投稿を始めたのです。

初掲載はベーマガ。“自分のプログラムが載ってる!”、“しかも改造されている!”

[三津原氏]:最初の投稿はどちらへ?

[森氏]:ベーマガに出しました。中学1年か2年だったかな? でも、載らなかったんですよ。このときは「自分がすごいと思って投稿しても、やっぱり世の中の評価は違うんだ」とショックを受けてへこんで、自分で作って楽しめば良いか、となりました。しばらくすると、それまではモノクロだったベーシックマスターがカラーにバージョンアップしたんですよ。ちょうどその頃、モノクロで「フルーツカメレオン」というゲームを投稿していたのですが、これを電波新聞社の誰かがカラーに改造して掲載してくれたんです。それが初掲載だったのですが、“自分のプログラムが載ってる!”、“しかも改造されている!”、“カラーにしたかったゲームを、カラーにしてくれている!”と、大喜びしました。そこからですね。作って送れば載るということが分かり、毎月毎月投稿するようになりました。大量に投稿したので、多いときは1カ月に3本や4本掲載されることもありました。当時は各社に出していたので、『マイコン』や『RAM』や『テクノポリス』といった、あの頃の雑誌にはほぼ載っているはずです。ベーマガにも出していましたが、それ以上にたくさん作っていたので。しかも、ベーマガはアイディア勝負で、あっちは技術勝負、こっちは“なんとか勝負だな”などと考えて、それに合わせたゲームを投稿していました。

[三津原氏]:中学生の時点で!?

[森氏]:そうですね。投稿対象の雑誌を読者視点で見たときに、このラインナップにあってもおかしくないプログラムは、自分の中ではコレ! と考えて送りました。

毎号、さまざまな機種の投稿プログラムで掲載されていた森氏。このように、機種もバラバラだった。

[三津原氏]:投稿時の名前は本名ですか?

[森氏]:そうです。

[三津原氏]:ペンネームではないのですね。

[森氏]:ペンネームという意識はなくて、雑誌に投稿するから自分の名前で出していたという感じです。本名でも、名前が読みにくいところがペンネームっぽいかなと。ただ、ペンネームの必要性は感じていませんでした。

[三津原氏]:そうすると、載ればまわりの人にバレますよね。

[森氏]:中学や高校の頃は“コンピュータの森君”でした。ちょうどパソコンが出始めた頃なので、故障したりつながらなかったりすると、みんな聞きに来ていました(笑)。

[三津原氏]:掲載されると謝礼がもらえますよね。投稿数も多かったですから、中学生からすると大きな額だったのでは?

[森氏]:1本載ると1万円ですが、源泉徴収で1,000円引かれて9,000円もらえました。こうしてお金がたまったらFM-7を買って、またたまると次はPC-6001mkIIを買い、機種が増えると同時にプログラムもたくさん作れるのでさらに投稿して……とやっていたので、時間が足りませんでした。

[三津原氏]:多くの人は、新機種を買うとそちらにべったりになるんですが、森さんはベーシックマスターのプログラムが載っているときにPC-8001やMSXでも投稿していたし、その後もFM-7とベーシックマスターのプログラムを同時に投稿していたりと、すべてが並行でしたよね。

[森氏]:そうですね。いろいろ使っていると機種ごとに得意不得意があると言うのも分かってくるので、“こういうのがやりたいときはこっち”で、“こういうときはこっち”という感じで、自分の中では棲み分けができていました。

[三津原氏]:ということは、やりたいアイディアが先に出てくるのですね。

[森氏]:アイディアと言うか、イメージが先ですね。作り始めるきっかけはいろいろで、イヤなことや困ったことがあったときにどうするのが良いだろうかと妄想すると、そこからゲームになってゆくというパターンが多かったです。投稿したフルーツカメレオンも最初、自分のあだ名が目が腫れぼったくってカメレオンのようだからカメレオン、と付けられていたのがイヤで、じゃあそれをゲームにしてやれ! として作ったのがきっかけでした。遊んでもらったら、カメレオンに悪いイメージがなくなった。イヤなものも、違う見方に転換すればいいかなと。すると、それはゲームでできるよね、となり、プログラムで組めるから自分でできるし、人にも見せられるよねと。

[三津原氏]:つまり、森さんにとってのコンピュータは“やりたい”ではなく“作りたい”だったんですね。

[森氏]:そうですね。“作りたい”が大きいです。

[三津原氏]:ということは、プログラムはどちらかというと手段?

[森氏]:はい。当時は、できないことができる、そのことがすごくうれしかったのです。

[三津原氏]:森さんの投稿に関して疑問なのは、多数のゲームを作っているけど、マシン語を使ったものはほぼ発表されていないところです。これはやはり、手段として必要がなかったからですか?

[森氏]:そうです。手段として“これを実現したい”という願望があって、BASICでできちゃえば、それでいいんです。でも、オブジェクトを大量に動かしたりすると処理が重い。そこはどうしてもBASICではできないので、マシン語でやればいいや、と。でも、マシン語で全部の仕組を作るのはすごく時間がかかるから、この部分はBASICでやりましょうと。最終的には、自分が思っていたことを形にすることが大事だったので。

[三津原氏]:そこに技術的なこだわりがあるとか、そういうものではない?

[森氏]:あるにはあるのですが、普通の技術者よりはないかもしれません。技術屋さんからすると、ずるいことをしていると思われるんじゃないかな(笑)。おいしいところばかりを使って、ちゃんと勉強していないと。でも、手段はともかく思っているものを作れれば、それが一番楽しいんです。

[三津原氏]:ほかに気になっていたのが、多くの人が80桁モードでゲームを作る流れの中で、森さんは40桁で作っていました。あれは、こだわりですか?

[森氏]:そうです。80桁は字が細くて読みにくいですし。それに、最初にベーシックマスターを買ったのは、フォントに入れ込んだからです。40桁のフォントが好きで、80桁の縦長フォントは苦手だったんですよ。

[三津原氏]:簡易グラフィックを使わず、ずっとキャラクターグラフィックで作られていたというのも、やはりこだわりですか?

[森氏]:グラフィックで作りたかったのですが、時間がないのと、線で描くのがおもしろかったこともありますね。線というか、キャラクターを組み合わせると、ドット絵じゃなくて線画になる、それをしたかったんです。ドットよりも、もっと細かい線ができるということで使用していました。

[三津原氏]:40桁モードだと画面が広く使えないなと思いつつも、森さんのゲームをいくつか打ち込んだのですが、ロボットが何かを取って油を差すというゲームで、ゲームオーバーになると機械なのに“痛いよー”と言うんです。あの狭い画面の中に情報がきっちり収められていて、しかもゲームになっている。コレはすごい! と思いました。

[森氏]:タイトルからゲーム内容をイメージして作ることが多かったので、タイトルには結構こだわりました。ゲームを作るときにイメージが浮ぶと、それってどういうタイトル? こういうタイトル! となり、キャラクターを動かすイメージが出てきて、音はこんな感じかな? となり、それらを合わせて作っていく。なので、タイトルは重要だったりします。

[三津原氏]:これはPC-8001用のプログラムで、「メビウス」というタイトルが『ゼビウス』っぽいですね(笑)。

[森氏]:ゼビウスは、膨大なデータ量が絶対に必要だから大変というのを逆手にとって、一画面プログラムにしました。数十行のプログラムでは絶対できるはずがないから、作ってみたくてやってみました。

当時掲載された「メビウス」のページを見る森氏。「メビウス」は、1983年9月号に掲載されたPC-8001用の一画面プログラム。たった23行の中に、森氏ならではのアイディアが凝縮されている。

マシン語の本を書いたりもしたけれど、ゲーム会社へは就職せず

[三津原氏]:それにしても、ベーマガの中ではBASICで作られていて、マシン語を使った作品はほぼないですが、マシン語の本を出されていますよね。プログラムを手段として使うという流れでマシン語を覚えるとすれば、必要最低限で良いじゃないですか。でも、こういう本を書こうとすると、ちゃんと調べないといけない。

[森氏]:この本はほかのマシン語の本と比べると、最低限のことしか書いていないと思います。テクニックのようなものではなく、ここのメモリをここに早くコピーするにはどうしたら良いか? じゃあ順番に調べていきましょう。メモリの内容を取ってきて、ここに置く。という感じで、基本命令しか載っていないのです。そして、それをどうやってBASICから呼び出すか? そういう書き方になっていると思います。

[三津原氏]:これは、いつ書かれたものですか?

[森氏]:高校2年生くらいかな? これ1冊を一カ月くらいで書いているんですよ。当時は、まわりに本を作っている人なんていなかったから比較できなくて、製作期間はそういうものだと思っていました。アイディアを考え、打ち込んでデバッグして動く形にして、読みやすいプログラムに整形して音と絵を入れて、原稿を書いて3日くらい。これを全プログラムで実行して20日くらいで終わらせて、最後に編集部から届いたゲラをチェックして、赤を入れて返却。今考えると、めちゃくちゃ大変でした。ただし、親からは「書いても良いけど勉強はすること」と言われていましたので、作業はクラブ活動(理科部)が終わった放課後や、自宅と学校の行き帰りの途中に脳内で考えて、というのがほとんどでした。

[三津原氏]:これだけゲームを作ったにもかかわらず、ゲーム会社へは就職しなかったのですね。

[森氏]:そうですね。実は、自分はゲームが作りたいのかなと思っていたら、そうでもない。当時は分からなかったけれど、自分は作りたいものがあって、それを作るということがやりたかったんだと。それまでも、プログラムを共同で作るアルバイトをしたことがあったのですが、共同作業の場合は自分では“こう”だと思っても、ほかの人が“そうじゃない、こうだ”とか言ってくるので、自分が思っていたことの半分も結果に残せない。仕事ってそういうことか、と感じたときに、それよりも自分で思っていることを作りたいと考えたんです。ゲーム会社に入り、みんなで作業すればすごいのは作れるだろう、でもそうではなくて、自分が作りたいものを作りたい。だから、ゲーム会社は選択肢に入っていなかったです。

[編集部]:投稿をしなくなったのも、そのタイミングですか?

[森氏]:大学の頃に投稿がなくなったのは、PC-9801が出始めたことが大きいですね。それまで、パソコンはホビー向けだと思っていたのに、98はビジネスパソコン。パソコンは今後、そういう目で見られるのかと思い、ガーンと……。BASICなら仕事でもゲームでも何でも作れると思っていたのに、ビジネスパソコンならC言語をやらないと、と考えたときに、時代は変わっていくんだなというのを肌で感じました。そこで、次に何をするのかということでC言語を始めたのですが、ビジネスはやりたくない。当時、ダイナウェアというソフトハウスでアルバイトをしていて、そこで(DTMのシーケンサー)『Ballade』というソフト製作に参加していました。そのときに、C言語はゲームは大変だけど楽譜ワープロの部分はスムーズに実現できるという世界に出会って、すごくおもしろかった。しかも、マシンをシンセサイザにつなぐと、曲として流れる。楽しくて、ずっとそれをやっていた感じです。

[編集部]:つまり、PC-98の登場がきっかけで、投稿を卒業したという感じですか?

[森氏]:投稿は続けたかったんですが、ダイナウェアでコードを書くことに時間を取られまして。すると今度はローランドから声がかかり、「『Ballade』と、うちのシンセサイザとのパッケージ統合をやりませんか?」という話から、『ミュージくん』ができました。当時、大阪で作業していたこともあって「ミュージックだからミュージくんやで!」という流れから、ミュージくんという名前を付けました。楽しくてずっとやっていたんですが、本人としてはそれもゲームを作っている感覚なんです。ユーザーが何かしたのを反映して結果が出る、ゲーム作りの延長ですね。ということで、投稿もちょっとお休みしている感覚で、気付いたら何年も経っていたというだけです(笑)。作りたいという思いは変わらなくて、インターネットでFlashが使えるようになったときは「これを使えば自分が作ったものを公開できる」と思い、Flashで作りまくってました。

森さんはどうしてマシン語をあまり使わなかったのか?という三津原さんが当時から抱いていた疑問がついに解けた

森さん=高橋はるみさん説は、間違いだった!?

[編集部]:森さんはベーマガに投稿していましたが、気付くと編集部の方との会話が載っていたりしていましたよね。あれは、どんな出会いのきっかけがあったのですか?

[森氏]:私は最初から最後まで、投稿する人です。投稿プログラムをテープで送り、返事が来る。そんなやり取りの中で「今度編集部で特集を組むから東京来ませんか?」というお誘いが一度あったので「行きます行きます!」と。すると、それが誌面になっていました。それが初めてのときだったので、誰が誰なのか分からない状態で部屋に通されて、対談のようなことをして、気付いたら終わっていた(笑)。編集部の人になったとかではなくて、一度誘われたので行って、対談して、帰って、その後も普通に投稿していたという感じです。

[編集部]:森さんの作品には誌面でDr.Dが「森君の投稿だね。今回もアイディアが光ってるね」という感じで、毎回ほかの投稿者よりも1段上の評価を付けていたように思えました。

[森氏]:当時は気付きませんでしたが、ベーマガイベントで何十年ぶりかに会ったときに当時の編集者に話を聞いたら、送られてきた原稿やプログラムの書き方などが、相手にちゃんと伝えようとしていた意図があることが編集部の人に伝わっていたそうです。読みやすいというか、そのまま誌面に掲載しやすい、分かりやすい文章だったんでしょうね。ちょうどその頃、誌面に高橋はるみのプログラムが出ていまして。彼女は書籍を出していて、僕はベーマガに多数投稿していたんですが、本を書くきっかけになったのが高橋はるみなんですよ。当時はネットもないので、電波新聞社かナツメ社、どちらかの会社を通じて彼女から手紙が来たんです。「本を書きませんか?」と。「えっ? 嘘やろ!?」となりまして、でも二つ返事で「書きます!」という返信をしたのがきっかけで、ナツメ社に紹介してもらって書籍を書き始めました。

[編集部]:そこで、二人で会って……。

[森氏]:いや、会っていません。

[編集部]:会っていない!?

[森氏]:そうなんです。間にナツメ社があって、彼女からの手紙を渡されて、こちらからも手紙でナツメ社に返信を送ると、会社経由で再び先方に手紙が送られる。

[三津原氏]:ということは、森さんも、住所を知らない? しかも、文通でもなかった!?

[森氏]:そうです。文通でもなく、担当の人に渡すと向こうへ届き、そして担当者経由で返事がまた来るという、そんな手紙のやり取りをしていました。

[編集部]:書籍を作る進行上、不便ではなかったんですか?

[森氏]:本を書くのはナツメ社相手なので、一度打ち合わせにナツメ社へ行き、こんな原稿用紙に書くんですよと教えてもらったりしました。

[三津原氏]:原稿用紙ですか。

[森氏]:そうです。やたらと大きな原稿用紙でした。それを送るとチェックが入ったものが戻ってきて、僕がチェックしてまた送り……という作業でした。ただ、一冊目はゲームの本を書くとばかり思っていたのに、音楽の本を書いてくださいと言われて、ビックリしました。でも、自分の中ではゲームに音楽も使うので、なんとかなるだろうと思って引き受けました。

[三津原氏]:わりと世間では、“森さん=高橋はるみさん”ではないか説が強いですが(笑)。

[森氏]:当時は、似ている感じがしますね。

[三津原氏]:実は「あ、これか!」と思っていたことがありまして、森さんがとあるとき以降、ソースの書き方がガラッと変わったことがありまして。“STOP!はるみちゃん”などのソースが、高橋はるみさんが書いたプログラムほぼそのもののようになっていたので、人はだませてもソースはだませない(笑)と思ったことがありました。森さんの書籍を見ると、高橋はるみさんと同じようなソースの書き方をするなと思ったのですが、これは影響を受けたからですか?

[森氏]:本を書くまでは、プログラムを組むということは羅列する書き方が普通で、読みやすくするという意識がありませんでした。でも『はるみのゲーム・ライブラリー』などを見ると、読みやすくするということが結果として作りやすくなるし、意味も分かりやすい。そういう発想があったんだ! と感心しました。そういうのを学べるのが当時は彼女の書籍しかなかったので、最初は学ぶためにマネたという感じです。あの時代は構造化プログラミングとかはなかったので、何をしたら読みやすくなるか、何をしたら効率がよくなるとか作りやすくなるか、そういう試行錯誤の時代で、そのうちの一つとしてマネたというのもあります。

当時、森氏がプログラミングの参考にしたという、高橋はるみさん関連書籍。掲載されているプログラムは、どれもすっきりしていて、非常に見やすい。

[三津原氏]:そういう事情があったから、よけい同一人物説が出た可能性があるんですね。

[森氏]:プログラムというのは、技術というよりは自分が持っていることを形に表わしたいという手段で、それを分かりやすくするためには彼女のプログラムをマネるのがよい、ということでマネたし、実際ソックリだと思います。逆に当時、こんなに分かりやすいのに、マネてない人が多かったのはどうしてかなと思っていました。

[三津原氏]:BASICは、マルチステートメントにすると省メモリになったり少し早くなったりするという仕様がありましたよね。そういうメリットばかりが先行して話され、“読みやすい読みにくい”が語られたことは、あまりなかった気がしますよね。

[森氏]:その当時も、疑問に思っていました。プログラムは作るけれど後で改良したい、変えたい、別の機種に移植したいという気持ちがあると、読みやすくすることを省略すると後で苦労することが多いんですよね。きれいに書くと移植しやすいなどのメリットがあって、人のためとか見栄えではなく、自分のためになるんだというのが分かったので、わざと書いていました。

[三津原氏]:森さんの場合、BASICですむところはBASICでヨシとなる。速度やメモリではなく、自分が実現したいものが間に合えばそれでよい、という発想。だから、ソースの読みやすさとかがきちっとできるし、多くのプログラマとはまた違う思考を持っているんだなと。そこがすごいと思いました。

[森氏]:自分は、タイプが普通のプログラマとはだいぶ違うなと、ずっと思っています。彼らと技術的なところで話をすると、ちょっと方向が違うので。

[三津原氏]:プログラマとしては、わりと対極かもしれません。

[編集部]:見やすさと言えば、当時のBASICプログラムには、頭か最後に必ずREM文が入りましたよね。

[三津原氏]:実は私、ベーマガにプログラムが一度載ったことがあるんですが、REM文をしっかりと書いたら、そこだけちゃんと削られて掲載されました(笑)。

[森氏]:そんなことがあるんですか!

[三津原氏]:多分、一ページに収まらなかったからだと思うんですが。

[森氏]:REM文のフォーマットも人それぞれなのは、今の絵文字のはしりですね。

[編集部]:ゲームオーバーの文字とかも、高橋はるみさんはいろいろ工夫していましたよね。シューティングゲームのときはシュッとした感じだったりとか。

[森氏]:そのときに、始めてフォントというものを知りました。文字は形が違うし、文字を使えば絵になるんだと。そこから凝り出しました。

高橋はるみさんから、プレゼントをもらったことも!

[三津原氏]:実は「PasocomMini PC-8001」の製作に入るときに、高橋はるみさんと連絡が取れないかと思い、探したことがありまして。フォーサイト企画部に連絡すると「直接連絡先を教えるわけにはいかないけれど、用件を教えてもらったら本人に伝えます」という話までは進みました。そこで、こういう理由で連絡を取りたいとお願いをしたものの、どうもはるみさんから返信が来ないらしい。

[森氏]:それはよく聞きます(笑)。よくあることです。

[三津原氏]:このインタビューがきっかけで、高橋はるみさんから連絡が来るといいな、とちょっぴり思っていたりします。私じゃなくて、森さんのところにで良いんですが(笑)。

[編集部]:せっかく名前が出たので、フォーサイト企画部のことをもう少し教えてください。

[森氏]:PC-8001とかのゲームプログラムを出している人とかが所属している、フォーサイトという団体が東京にあって、すごい人たちがいるんだというのをうっすらと聞いていました。

[編集部]:サークルみたいなものですか?

[森氏]:そうです。一度東京に、電波新聞社での対談でおジャマさせてもらったときに、フォーサイト企画部の人と連絡が取れまして、高橋はるみ以外の人とは会ったことがあるんです。そこで、すごいコアな話などをたくさんしてもらい、東京は違うなーと思ったのをよく覚えています。

『マイコンBASICマガジン』1983年10月号に掲載されている、自身の投稿プログラム「SWEEPER」のCHECKER FLAGコーナーに登場していた。このタイミングで、編集部を訪ねているのが分かる。

[編集部]:それがきっかけで、フォーサイト企画部の人たちと交流が?

[森氏]:交流というか、フォーサイト企画部が毎月発行している会誌に、ゲームをちょくちょく投稿したりしていました。でも、直接会うことはほとんどなかったです。

[三津原氏]:当時の読者から見ると、森さんはベーマガの人という感覚があるかもです。

[編集部]:そうですよね。ベーマガの人で、フォーサイト企画部の人で、毎月編集部に行ってすごいことをやっている人という印象。

[森氏]:つい最近、IchigoJam(手のひらに載せられる大きさの、プログラミング専用子供パソコン)が出たときに大阪でイベントがありまして、そこに当時のベーマガ編集長が来るというのを耳にしたので出かけたら、僕がベーマガに投稿していた時代から三十数年経って始めて編集長と会えたというくらい、全然見たことがなかった。それまでは、どんな人なのか、実在するのかさえも知らなかった。

[三津原氏]:電話でのやり取りも?

[森氏]:なかったです。

[編集部]:1983年くらいに本屋さんで購入した高橋はるみさんの本にも、フォーサイト企画部の人にいろいろと聞いていた、と書籍中に書かれていました。

[森氏]:多分、技術的なことを聞いていたと思います。

[三津原氏]:はるみさんのまわりには、詳しい人が大勢いたんですね。

[森氏]:たくさんいたと思います。

[三津原氏]:女子高生がPEEK文を使うか! とは思いました(笑)。

[森氏]:特殊なキー入力の方法も教えてもらっているんだろうなと、羨ましく思ったりも。

[三津原氏]:はるみさん、BASICしか使えないと思ったらマシン語っぽいこともやってる感じもして、想像図が描けませんでした。

[森氏]:師匠っぽい(フォーサイト企画部の)小牧さんや川村さんは結構ハードに強くて、マシン語的なコツを結構知っているんですよね。

[三津原氏]:気付けば、はるみさんの話にドンドンいってしまいますね(笑)。森さん、いろんなところでハッキリ“違う”と言っているのに、疑惑が取れない……本人が名乗り出てこない限り、ずっと森さんの疑惑は晴れないかもです。

[森氏]:もう、どちらでもいいです(笑)。

[編集部]:ベーマガでは、はるみさんを題材にしたゲームを投稿していた人としては有名でしたよね。

[森氏]:高橋はるみもベーマガに記事を書き始めて、なんとなく合流という雰囲気になったので、じゃあ彼女を題材にしてゲームにしてもいいやろ、という感じだったかな。

[三津原氏]:ゲームにすると、はるみさん本人にはあらかじめ伝えてありました?

[森氏]:いえ、言ってません(笑)。でも、手書きのハガキとかでやり取りはしていました。書かれていた書体は、ちゃんと丸文字でした。

[(一同)]:おお!!

[森氏]:何かのときに、タキシードサムというサンリオキャラクターのぬいぐるみをプレゼントしてもらったことがあるんです。その絵を描いたゲームもあったかな? これですね。これをもらったと喜んでゲームに使ってました。なので、僕の中で彼女は実在したと思っています。

高橋はるみさんからプレゼントしてもらったぬいぐるみをモチーフに描いたのが、三津原氏が指している絵だ。

いつまでも何かを作っていきたいし、それを楽しんでくれる人がいることがクリエイター冥利

[編集部]:そう言えば、当時のパソコンは、どうしています?

[森氏]:全部ないです。今になって、残しておけばよかったと思っています。なかでもベーシックマスターは、ゴミ捨て場に悩みながら置いて、でもやっぱり捨てない! と考え直し回収に戻ったんですが、わずか10分くらいのうちになくなっていました……。当時のもので残っているのは、カセットテープだけです。今回、それを「PasocomMini PC-8001」に読み込ませたら復活して、とてもうれしい限りです。

[三津原氏]:「PasocomMini PC-8001」を見たときには、どう思いました?

[森氏]:こういうの(「PasocomMini PC-8001」)が出るかも、という情報を得たときから、記事中の写真を拡大してずっと見ていたほど楽しみに待っていました。

[三津原氏]:実際に入手して、どういう楽しみ方をしています?

[森氏]:当時の環境が今、同じように使えることが一番うれしかったので、ゲームができたことに関しては“懐かしい!”でしたけれど、それよりも起動時のBASIC画面が表示されて、文字が入力ができて、命令を実行したら動いた、というのを“今またできた”のがとてもうれしかった。なので、何をするというわけではなく、動かして遊ぶだけとか、当時を再現して実行している感じです。今のキーボードではグラフィック関連のキーがややこしいですが、PasocomMini公式サイトを見たらキー割り当てが書かれていたので、これを見たらイケる! ということで、グラフィック記号も当時の感覚で入力できるようになりました。実際にやり出すとキーの場所を指が覚えていて、これはあそこだったここだったと懐かしみつつ、作っていてほっこりしました。

[編集部]:そうなると、今年は新作の予感がしますね!a

[森氏]:ニーズがあるかどうかが分かりませんが(笑)。

[三津原氏]:森さんの新作ができたら、普通にニュースになりますね。大勢の人が打ち込みそうです。

[森氏]:打ち込むと言えば、今頃当時のベーマガに掲載されていたプログラムを入力したのですが、いざやってみると文字を打つたびに当時を思い出すところがありました。BASICだとマシン語と違い、ここまで入力して実行するとタイトルだけ表示されて、ここまでだと画面が表示される、というように打ち込みながら動かせる。進捗が目で見て分かるのでつど満足できるから、モチベーションが保てて引き続き入力できるんですよね。そんなことを当時やっていたな……と思い出しました。

[三津原氏]:確実に、ベーマガ少年の1ページとして森さんがいるという感覚があって、そういう方と話ができるのは本当に幸せだなというのと、ゲームが作りたいという気持ちを分かりやすく伝えてもらえて、会えて本当によかったなと思いました。さまざまな人と会いましたが、森さんは本当にゲームクリエイターだなという感じがしました。

[森氏]:今でも、作って形になるのが好きです。現在は書籍をたくさん書いているのですが、それがゲームを作っている感覚に非常に近いんです。読者というプレイヤーが読み進めていくと“ここでこう思う”や“ここでこうつまずくから、ちょっと補充する”、“ここで飽きるだろうから、こういうのを入れるという仕掛を入れておくと分かりやすくなるだろう”ということを計画して作っていく、これはゲーム製作に近いなと思っています。本を書いているけれど、自分としてはゲームを作っているのと気分が一緒なんですよ。成果物を見て、楽しんでいる人がいる。そうあったらいいなと、常に思っています。

[三津原氏]:森さんは、一生クリエイターですね。今日はありがとうございました。